読んだ。 #カント #永遠平和のために 悪を克服する哲学 #萱野稔人 #100分de名著

読んだ。 #カント #永遠平和のために 悪を克服する哲学 #萱野稔人 #100分de名著
 
 
はじめに 哲学の視点から平和の可能性を考える
第1章 誤解されやすいカントと『永遠平和のために』
遅咲きの哲学者カント
カント教授の一日
厳格な哲学者というイメージ
『永遠平和のために』が書かれた歴史的背景
 
『永遠平和のために』全体の構成
26 
序文 - 永遠平和のために
第1章 - 国家間に永遠の平和をもたらすための六項目の予備条項
(この章は国家間の永遠平和のための予備条項を含む)
 
第1条項 - 将来の戦争の原因を含む平和条約は、そもそも平和条約とみなしてはならない。
(将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない。)
第2条項 - 独立して存続している国は、その大小を問わず、継承、、交換、買収、または贈与などの方法で、他の国家の所有とされてはならない。
(独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、他の国家がこれを取得できるということがあってはならない。)
第3条項 - 常備軍は、全廃すべきである。
常備軍(miles perpetuus)は、時とともに全廃されなければならない。)
第4条項 - 国家は対外的な紛争を理由に、国債を発行してはならない。
(国家の対外紛争に関しては、いかなる国債も発行されてはならない。)
第5条項 - いかなる国も他国の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない。
第6条項 - いかなる国家も他の国との戦争において、将来の和平において相互の信頼を不可能にするような敵対行為をしてはならない。例えば暗殺者や毒殺者を利用すること、降伏条件を破棄すること、戦争の相手国での暴動を扇動することなどである。
(いかなる国家も、他国との戦争において、将来の平和時における相互間の信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。)
 
第2章 - 国家間における永遠平和のための確定条項
(この章は国家間の永遠平和のための確定条項を含む)
 
第1確定条項 - どの市民的な体制も、共和的なものであること
(各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。)
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
第3確定条項 - 世界市民法は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
第一追加条項(第1補説) - 永遠平和の保証について
第二追加条項(第2補説) - 永遠平和のための秘密条項
 
付録
1. 永遠平和の観点から見た道徳と政治の不一致について
(永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について)
2. 公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の不一致について
(公法の先験的概念による政治と道徳の一致について)
 
 
『永遠平和のために』は単なる理想論なのか?
 
常備軍は全廃できるのか?
30 常備軍が存在するということは、いつでも戦争を始めることができるように軍備を整えておくことであり、ほかの国をたえず戦争の脅威にさらしておく行為である。また常備軍が存在すると、どの国も自国の軍隊を増強し、他国より優位に立とうとするために、かぎりのない競争がうまれる。こうした軍拡費用のために、短期の戦争よりも平和時のほうが大きな負担を強いられるほどである。そしてこの負担を軽減するために、先制攻撃がしかけられる。こうして、常備軍は戦争の原因となるのである。
 
31 常備軍の兵士は、人を殺害するため、または人に殺害されるために雇われるのであり、これは他者(国家)が自由に使うことのできる機械や道具として人間を使用するということである。これはわれわれの人格における人間性の権利と一致しないことだろう。もっとも国民が、みずからと祖国に防衛するために、外敵からの攻撃にそなえて、自発的に武器をとって定期的猪訓練を行うことは、常備軍とはまったく異なる事柄である
 
 カントが「常備軍」と呼んでいるのは傭兵による常備軍のこと。王が傭兵を雇って軍事力を保持・増強することには反対しているが、時刻を守るために国民がみずから軍隊を組織することは認めている。カントは決していかなる軍隊も常備してはならないということを述べているのではない。あくまでも権力者が傭兵を雇い「機械や道具として人間を使用する」ことを「全廃すべき」と主張している。
 
 
カントが議論の前提とする国家のあり方
33 国家とは、その所有している土地とは異なり、財産でないからである。国家は人間が集まって結成したものであり、国家それ自体をのぞくだれも、国家に命令したり、これを自由に支配したりすることのできないものである。国家を樹木に譬えるならば、みずから根をはった幹のようなものであり、これを切りとってほかの幹に接ぎ木するようなことをするならば、その道徳的な人格としての存在を失わせることになり、国家を道徳的な人格ではなく物件にすることである。これは民族にかんするあらゆる法と権利の基礎となる根源的な契約の理念に反することである。
 
35 カントのこうした国家のとらえ方は必然的に植民地支配に対する批判になりえる。国家とはその土地に根ざした人たちが「集まって結成したもの」であり「他の国家の所有とされたはならない」ものである以上、カントにとって植民地支配は当然受け入れられるものではなかった。
 
 
人間性とは邪悪なものである
戦争とは異常なもの、逸脱的なものではない
 
自然状態とは戦争状態である
39 ともに暮らす人間たちのうちで永遠平和は自然状態(スタトゥス・ナーチューラーリス)ではない。自然状態とはむしろ戦争状態なのである。つねに敵対行為が発生しているわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在する状態である。だから平和状態は新たに創出すべきものである。敵対行為が存在していないという事実は、敵対行為がなされないという保証ではない。この保証はある人が隣人に対して行うものであり、これは法的な状態でなければ起こりえないものである。
 
※こうした自然状態を戦争状態とみるという考え方は、カントがオリジナルではなく、17世紀に活躍した思想家トマス・ホッブズに端を発する「社会契約説」を下敷きにしています。社会契約説とは、どのように人間が国家をつくったのかを論じたもので、要約すると、国家の成り立ちを次のように考えます。
「万人の万人に対する闘争」
法秩序が存在しない自然状態では、人間は常に自分の利益だけを考えて行動する。それゆえに放っておくと戦争状態へと向かい、生存さえ危うくなってしまう。そこで命や一定の権利を守るために、人間は相互にルールを守るという契約を結び、それが国家(政府)になった
 
 
歴史のリアリティを直視するカント
43 人間性が邪悪なものであることは、こうした諸民族の関係からありありと読みとることができる。このことは市民的で法的な状態では、統治による矯正のために覆い隠されていただけなのである。
 
 
平和を探求する問の転換
43 「なぜ戦争が起こるのか」という問いはカントにとってはさほど重要なものではない。戦争は人間の本性と結びついているため、戦争に何か特別な理由を求めても、それは空振りに終わってしまう。先の引用文でもカントは「戦争そのものにはいかなる特別な動因も必要ではない」と述べていた。
 むしろカントにとって重要なのは「どうしたら戦争を起こりにくくさせることができるか」という問い
 これら二つの問いの違いは決定的に重要。前者の問いから校舎の問いへと転換することこそが『永遠平和のために』を読み解く鍵となるとさえいえる。
 
 平和状態は新たに創出すべきもの」
 
国家をどうとらえるか
45 カントは決して国家を否定していない。それどころか、平和を実現するためには国家は不可欠だと考えている。
 なぜなら、国家とはまさにその領域内で「法的な状態」を確立することで存在するものだから。言い換えるなら、国家が存立しているのは、戦争状態である自然状態がその領域内で克服された結果として、である。
 事実、安定した近代国家の建設に成功した国では、内戦の危険性はすでに過去のものとなっている。日本でも戊辰戦争西南戦争を最後に内戦と呼べるような武力衝突は起こっていない。内戦を克服したところに近代国家は存在する。
 カントにとって、国家の成立とは人類社会に平和が実現される一つの段階に他ならない。
 カントは決して「戦争するのは国家だから国家をなくすべきだ」とは考えない。逆に、自然状態を克服して国家が成立したロジックをどのように国家を超えた次元にまで拡大していくのかを考える。
 日本では第二次世界大戦での敗戦という経験もあってか、国家への不信感が強く、「戦争するのは国家だから、戦争をなくすためには国家をなくすべきだ」という発想も知識人を含めて非常に根強くある。脱国家的な思考性が日本の哲学・思想系で強いのも同じ現象。
 しかし、カントからすれば、そうした発想は感情に任せた謬論にすぎない。カントの議論を通じて自らの思想的な思い込みを洗い出すのも、カントを読むことの価値の一つである。
 
 
 
第2章 世界国家か、国家連合か
戦争が起こりにくくなるような社会の仕組み
52 第2章 - 国家間における永遠平和のための確定条項
(この章は国家間の永遠平和のための確定条項を含む)
第1確定条項 - どの市民的な体制も、共和的なものであること
(各国家における市民的体制は、共和的でなければならない。)
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
第3確定条項 - 世界市民は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
 戦争が起こりにくくなるような社会の仕組みについて、カントは三つの水準で議論を展開している。
(戦争が起こりにくくなるために必要な三つの条件)
・国内的な政治体制の水準
国際法の水準
世界市民法の水準
 
共和的な体制とは何か
54 共和的な体制を構成する条件が三つある。第一は、各人が社会の成員として、自由であるという原理が守られること、第二は、社会のすべての成員が臣民として、唯一で共同の法に従属するという原則が守られること、第三は社会のすべての成員が国家の市民として、平等であるという法則が守られることである。
 
 カントの言う「自由」とは「他人に迷惑や危害を与えなければ何をしてもいい」という意味の自由ではない。そうではなくそれは、自分たちがしたがう方は自分たちで決めることができる、という意味での自由。
 権力者や支配者が一方的に決めた法に人びとがしたがわなくてはならない状態は、カントの言う「自由」ではない。現代的な言い方をすれば、国民が主権(すなわち自己決定権)をもち、選挙などの制度をつうじて国民が立法過程に関与できていることが、カントの言う「自由」にあたる。
 
なぜ共和的な体制は平和に必要なのか
57 ところで共和的な体制は(略)永遠平和という望ましい成果を実現する可能性をそなえた体制でもある。この体制では戦争をする場合には、「戦争するかどうか」について、国民の同意をえる必要がある。共和的な体制で、それ以外の方法で戦争を始めることはありえないのである。そして国民は戦争を始めた場合にみずからにふりかかってくる恐れのあるすべての事柄について、決断しなければならなくなる。みずから兵士として戦わなければならないし、戦争の経費を自分の資産から支払わねばならないし、戦争が残す惨禍をつぐなわねばならない。さらにこれらの諸悪に加えて、たえず次の戦争が控えているために、完済することのできない借金の重荷を背負わねばならず、そのために平和の時期すらも耐え難いものになる。だから国民は、このような割に合わない<ばくち>を始めることに慎重になるのは、ごく当然のことである。
 
「支配の形式」と「統治の形式」
59 「共和的な体制は、民主的な体制と混同されることが多い」→ 共和的な体制と、民主的な体制は別物。
 国家の形式を区別する二つの方法。
一つは「支配の形式」から区別する方法であり、もう一つは「統治の形式」から区別する方法。
 
「支配の形式」では、支配する権力を握っているものの人数で国家の形式が区別される。
支配する権力(政府において決定を行う権限)を握っているのが一人なら「君主制に、複数人なら「貴族制」に、市民社会を構成するすべての人なら「民主制」(直接民主制に区別される。
 
「統治の形式」から区別する方法→立法権と行政権の関係によって区別される。
共和的な政治体制→行政権と立法権が分離している
専制的な政治体制→行政権と立法権が分離していない
 
共和的な体制は民主的な体制とは区別される
62 共和政体とは、行政権(統治権)が立法権と分離されている国家原理であり、専制政体とは、国家がみずから定めた法律を独断で執行する国家原理である。
 
カントが「民主制」を否定したのも、この論理においてである。
 カントの言う「民主制」とは直接民主制のこと。つまりそこでは国民全員が法を決定し、かつ法を執行するので、立法権と行政権は全く分離されえない。現代の言葉で言えば、まさに全体主義
 「民主制は語の本来の意味で必然的に専制的な政体である
 カントにとって「民主制」とは「立法者が同じ人格において、同時にその意思の執行者となりうる」「まともでない形式」であり、決して受け入れられるものではなかった。
 
立法権と行政権の区別がなぜ重要なのか
63 「支配の形式」に対して「統治の形式」は「比較にならないほど重要な意味をもつ」
 平和を実現するためには、「君主制」か「貴族制」か「民主制」かということよりも、立法権と行政権がどこまで分離されているかが重要
 
 ドイツでも日本でも、第二次世界大戦に至る過程で立法と行政の区別がなくなっていった。
 ドイツでは、ワイマール憲法のもとで行政権が法によって厳格にコントロールされていたはずだったが、アドルフ・ヒトラーの出現によって立法と行政の境目が次第にあやふやになっていった。最終的には「全権委任法」が成立し、ヒトラーが組閣した内閣に立法権憲法改正権が委譲されることで、立法と行政権は一本化してしまった。
 日本では「国家総動員体制」が敷かれることで、立法の機能が事実上、行政府と軍部に吸収されてしまった。
 平和を実現するためには、確かに国民が主権者として自己決定権を持つことがまずは重要。しかし、それだけでは不十分であり、その自己決定権は立法権として政府の執行権(行政権)から区別・保護される必要がある。
 
第二確定条項で問われていること
第2確定条項 - 国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。)
国際法の水準と言っても、カントが考察しているのは、国際法の内容はどのようなものであるべきかということではない。そうではなく、国際法はどのような国際関係に基礎をおくべきかといこと。つまりここで問われているのは、永遠平和を実現するためにはどのような内容の国際法が必要なのかではなく、どのような国際関係が国際法の基礎として永遠平和を実現するのに適しているか。
 何故カントは国際法に関してこうした問いを設定するのか。→国際社会においては諸国家に対して法を強制する機構が存在しないから。そうした状態では、いくら平和を促進するような内容の国際法を制定しても、その国際法に従わない国家が出てきてしまう。
 
66 たしかに、現代の国際社会にには国際連合(国連)の司法機関として国際司法裁判所が設置されている。しかし、この国際司法裁判所は、提訴する側の国家と提訴される側の国家の双方の同意がないと法的な処分を下すことができない。各国の同意のもとでしか法的な処分を下せない以上、それは各国を法に強制的に従わせる機構とは到底言えない。
 
国家間の戦争状態をどう克服するか
 
自由な国家の連合に基礎をおく
69 国家としてまとまっている民族は、複数の人々のうちの一人の個人のようなものと考えることができる。民族は自然状態においては、すなわち外的な法にしたがっていない状態では、たがいに隣りあって存在するだけでも、ほかの民族に害を加えるのである。だからどの民族も、みずからの安全のために、個人が国家において市民的な体制を構築したのと同じような体制を構築し、そこでみずからの権利が守られるようにすることを、ほかの民族に要求することができるし、要求すべきなのである。
 ただしこれは国際的な連合であるべきであり、国際的に統一された国際的な国家であってはならない。
 
一つの矛盾としての世界国家
71 このような国際的な国家は一つの矛盾であろう。どの国家も上位の者すなわち立法者と、下位の者すなわち服従すべき大衆で構成されているものである。もしも多数の民族が一つの国家に統合されるならば、多数の民族が一つの民族になってしまうことになるが、それではこの考察の前提に反することになろう。というのはここでわれわれが考察しているのは、諸民族がそれぞれ異なった国家を構成しながらも、単一の国家にまとまっていない状態において、いかにして諸民族を支配すべき法が定められるかということだからである。
 
72 世界国家をつくるべきだというアイデアは一見するとすばらしい解決策であるように見える。しかしそれはよくみると、「諸民族がそれぞれ独立した国家をもつという状況の中でいかに法の支配を実現していくか」という問題をまったく解決していない。解決していないどころか、「諸国家が並存する状況の中で」という問題の前提を消してしまっている。それはいわば前提を変えることによってあたかも問題を解決したかのように取り繕っているだけ。だからこそそれは「一つの矛盾」だと言われている。
 さらに、この引用文には世界国家に対するカントの懸念がにじみ出ている。すなわち、もし多数の民族が世界国家へと統合されるようなことになれば、そこには支配する民族と支配される民族という分割が不可避的に生じるのではないか。
 そうなると、「世界国家」といえばきこえはいいが、実際にはそれは帝国主義や植民地支配と変わらなくなってしまう。
 
世界国家のもとに隠された抑圧
74 国際法の理念は、互いに独立した国家が隣接しあいながらも分離していることを前提とする。しかしこの状態は既に戦争状態である(諸国家が連合の下で統一されていて、敵対行為を予防しないかぎり)。しかし理性の理念によれば、ある一つの強大国があって、他の諸国を圧倒し、世界王国を樹立し、他の諸国をこの世界王国のもとに統合してしまうよりも、この戦争状態の方が望ましいのである。というのは、統治の範囲が広がりすぎると、法はその威力を失ってしまうものであり、魂のない専制政治が生まれ、この専制は善の芽を摘み取るだけでなく、結局は無政府状態に陥るからだ
 確かにどの国家も、そしてどの元首も、このような方法で持続的な平和状態を樹立し、できれば全世界を支配したいと望むものである。しかし自然の望むところは、これとはまったく異なる。自然は、諸民族が溶けあわずに分離された状態を維持するために、さまざまな言語と宗教の違いという二つの手段を利用しているのである。
 
諸個人と諸国家の理論的な違い
78 法の支配しない状態にある人間にたいしては、自然法によって、「この状態から抜け出すべきである」と命じることができるが、国家にたいしては国際法によって同じことを命じることはできないのである。というのはどの国家もすでに国内では法的な体制を確立しているので、ある国がみずからの方の概念にしたがって、他国に命令しようとしても効力はないのである。
 
 自然法=人間を含むあらゆるものの本性=自然から導き出される法則。
人間の本性=自然にもとづいた人間の行動法則
自然状態において人間はまず自己の安全と利益を考える。「法の支配しない状態でみずからの安全や利益が脅かされるよりも、他人と協力して法の支配する状態に移行したほうがいい」
 
空虚な理念としての世界国家
81 しかしこうした国家は、彼らなりに国際法の理念に基づいて、このこと(世界国家を設立すること)を決して望まず、それを一般的には正しいと認めながらも、個々の場合には否認するのである。だからすべてのものが失われてしまわないためには、一つの世界共和国という積極的な理念の代用として、消極的な理念が必要となるのである。この消極的な理念が、たえず拡大しつづける持続的な連合という理念なのであり、この連合が戦争を防ぎ、法を嫌う好戦的な傾向の流れを抑制するのである。
 
 社会の中では「一般論としては賛成だが、個別論としては反対」ということがしばしば起こる。たとえば政府が財政難におちいっているとき、政府の予算を削減するという総論には多くの人が賛成するが、ではどの予算を削るのかという各論になると、それぞれの人は自分にかかわる予算は削られたくないので反対する、というような事態。「総論賛成・各論反対」などと言われる事態。
 
積極的な理念と消極的な理念
83 積極的な理念とは、いわば目的が手段を正当化することを許容する理念のこと。すなわち、正しい目的を達成するためなら何をしても許されると考える理念のこと。
 カントは世界国家の理念がそうした積極的な理念であることを見抜いていた。その理念は「永遠平和を実現するためには、世界国家に反対する諸国家を武力制圧することも辞さない」という考えをどうしても内包してしまう。
 こうした考えは根本的な矛盾をはらんでしまう。そこでは「平和のためなら戦争も辞さない」と考えられてしまう。
 
84 消極的な理念とは、手段が最適化されるところに目的を定めようとする理念のこと
 永遠平和についていえば、「平和が問われている以上、それを実現する手段も平和的なものでなくてはならない、したがって平和的な手段によって達成されるところに永遠平和の目的を定めよう」と考える理念のこと。
 要するに、積極的な理念と消極的な理念の間では目的と手段の関係が逆になる。積極的な理念では目的が手段を正当化する。これに対して消極的な理念では手段が目的を正当化する
 これは、政治の領域で物事を考えるうえで、きわめて重要な視点。
 私たちはともすれば目的が手段を正当化すると考えがち。とくにその目的が絶対的に正しいと思われるときほど、そう考えてしまいがち。しかしそうした発想は理念の暴走を招き、政治の場を抑圧と粛清の場にしてしまいかねない。
 政治に限って言えば、理想は高ければ高いほどいいと考える人は政治には向かない。手段を最適化したところに目的を定められる人こそ政治にたずさわる資格を持つ。
 カントは積極的な理念を退けて消極的な理念を重視した。この点でも、カントはいかに理想主義とは程遠いのかがよくわかる。
 
国際連盟国際連合の位置づけ
86 国際的な連合はあくまでも永遠平和が実現されるための前提条件。決してそれは十分条件ではない。そもそも両者の関係は、一方が与えられれば自動的に他方が導かれるというものではない。
 
 かつての国際連盟の試みも、現在の国際連合の試みも、どちらも永遠平和に向かう途上のものだと理解されなくてはならない。カントが構想した世界はまだずっと先にある。
 
カントの現実主義
88 この連合の理念は次第に広がってすべての国家が加盟するようになり、こうして永遠の平和が実現されるようになるべきであるが、その実現可能性、すなわち客観的な実現性は明確に示すことができるのである。
 
 このようにすべての国は、少なくとも言葉の上では<法・権利>の概念に敬意を表明しているが、このことは人間のうちに、まだ眠り込んでいるとしても、偉大な道徳的な素質があることを示すものであり、これが人間のうちにひそむ悪の原理を克服できること(悪の原理がひそむことを誰も否定することはできない)、そして他者も同じようにこの原理を克服することを期待できることを告げるものである。
 
なぜ世界市民法なのか
第3確定条項 - 世界市民は、普遍的な歓待の条件に制限されるべきこと
世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない。)
 
国内法とも国際法とも区別される世界市民法について、それはどのような条件に従うべきか。
 
91 ところでいまや地球のさまざまな民族のうちに共同体があまねく広がったために(広いものも狭いものもあるが)、地球の一つの場所で法・権利の侵害が起こると、それはすべての場所で感じられるようになったのである。だから世界市民法という理念は空想的なものでも誇張されたものでもなく、人類の公的な法についても、永遠平和についても、国内法と国際法における書かれざる法典を補うものとして必然的なものなのである。そしてこの条件のもとでのみ、人類は永遠平和に近づいていることを誇ることができるのである。
 
 国際法は国家と国家の関係を対象とするので、そうした法・権利の侵害から各人を守ることには適していない。もちろん国内法にも――国境を超えて活動する自国民を保護することに対しては――限界がある。そのため、国家を超えて交流する人々の権利の保護をもっぱら対象とするような、普遍的な世界市民法の理念が、国内法や国際法とは別に求められる。
 こうした世界市民法の理念がなければ、地球上の人びとは他国の人たちと安心して友好的な関係を築くことができない。しかもその友好的な関係は永遠平和の実現にとって基礎となるもの。だからこそカントは国際法の水準とは別にこの世界市民法の理念を提示した。
 
歓待とは何か
93 ここで歓待、すなわち<善きもてなし>というのは、外国人が他国の土地に足を踏み入れたというだけの理由で、その国の人から敵として扱われない権利を指す。その国の人は、外国から訪れた人が退去させられることで生命が危険にさらされない場合に限って、国外に退去させることはできる。しかし外国人がその場で平和的にふるまうかぎりは、彼を敵として扱ってはならない。
 
 敵として扱われない権利=歓待→博愛精神を説く道徳概念ではない。
 
誤解されやすい「歓待」の概念
94 ジャック・デリダ『歓待について』
 20世紀の終わり、当時のフランスでは反移民の世論の高まりを背景に、不法移民に対する風当たりが強くなっていた。
 
96  ただし外国から訪れた人が要求することが出来るのは、客人の権利ではない。この権利を要求するには、外国から訪れた人を当面は家族の一員として遇するという特別な条約が必要であろう。外国から訪れた人が要求できるのは、訪問の権利であり、すべての人が地表を共同で所有するという権利に基づいて、互いに友好的な関係を構築するために認められるべき権利なのである。
 
 ある国が移民を受け入れるためには、その国政府は彼らに対して言語の習得を手助けしたり、職業訓練の機会を提供したり、あるいは彼らが職に就けないようなら生活保護などの社会保障を与えたりしなくてはならない。そうしたサービスを移民が受けることは、引用文では「客人の権利」と言われている。
 
 
カントが「歓待」い込めたもの
97 「(訪問の権利とは)すべての人が地表を共同で所有するという権利に基づいて、互いに友好的な関係を構築するために認められるべき権利なのである。」
 
 この地球という球体の表面では、人間は無限に散らばって広がることができないために、共存するしかないのであり、ほんらいいかなる人も、地球のある場所に移住する権利をほかの人よりも多く認められることはないはずなのである。
 
 カントがこれを描いた時代状況。
18世紀から19世紀の初めにかけて、外国への訪問で一般的だったのは、先進国であるヨーロッパ諸国の人びとがそれ以外の地域を訪問することだった。逆に、先進国への移民の流入が問題になったのはようやく20世紀の後半になってから。そうしたカントの時代の訪問において何が起こっていたのかと言えば、ヨーロッパ諸国による侵略と植民地支配。
 
 しかし外国から訪れたものに認められるこの歓待の権利は、昔からの住民との交通を試みる可能性の条件を提供するものにすぎない。この権利が認められることで、世界の遠く離れた大陸が互いに平和な関係を結び、やがてはこの関係が公的で法的なものとなり、人類がいずれはますます世界市民的な体制に近くなることが期待できるのである。
 これと比較するために、開花された民族、とくにヨーロッパ大陸で商業を営む諸国の歓待に欠けた態度を考えていただきたい。これらの諸国が他の大陸やほかの諸国を訪問する際に、きわめて不正な態度を示すことは忌まわしいほどであり、彼らにとって訪問とは征服を意味するのである。
 
 デリダが行ったような「歓待」解釈は、カントが批判した植民地支配を肯定することになってしまう。
 
第3章 人間の悪こそ平和の条件である
議論の自由と秘密条項
第一追加条項(第1補説) - 永遠平和の保証について
第二追加条項(第2補説) - 永遠平和のための秘密条項
 
106 第二追加条項→国政を担うのは政治家と法律家(今でいうと行政官)だが、彼らは平和をもたらすための条件について哲学者の助言を仰ぐべきである。
 具体的な状況の中で行われる権力の行使には往々にして普遍的な理性の判断が欠けてしまうから。
 人間が普遍的で理性的な判断を行うためには自由で公な議論が必要だと考えていた。自由に議論できること、そして権力による抑圧を恐れてそれを隠すようなことはしなくてもすむこと。これが人間の理性の行使にとって不可欠なことだと、カントはさりげなく主張している。
 この追加条項が「秘密条項」だとされていること。
 
 というのは、国家の立法者たちにとっては、最高の知恵を蔵しているのは国家に他ならないはずである。だから臣下である哲学者に助言を求めることは、他の国家に対し提言を守るという原則からみると、国家の威厳に傷をつけるものと思われよう。しかし哲学者に助言を求めることは、きわめて望ましいのである。だから国家は暗黙のうちに、すなわち助言を求めていることを秘密にしながら、哲学者たちに助言するよう促すことになろう。
 
自然こそが永遠平和を保証する
第一追加条項→
109 永遠平和を保障するのは、偉大な芸術家である自然、すなわち<諸物を巧みに創造する自然>である。自然の機械的な流れからは、人間の意志に反してでも人間の不和を通じて融和を作りだそうとする自然の目的がはっきりと示されるのである。
 
 ここでいう「自然」とは、「自然を満喫する」とか「大自然の中の生活」とかいうような意味でつかわれる「自然」ではない。そうではなく、地球上のあらゆるものを創りだし、動かしているものとしての「自然」。
 この「自然」のなかには当然、人間も含まれる。
 人間の「本性=自然」は戦争にむかう傾向性を宿している→その「自然」はさらに、そうした戦争にむかう傾向性から平和さえも生みだそうとする。
 
世界のいたるところに人間が住んでいる謎
112 自然が暫定的に準備したものとして次の三つの点を挙げることができる。自然は
(1)人間が世界のあらゆる地方で生活できるように配置した。
(2)戦争によって、人間を人も住めぬような場所にまで駆り立て、そこに居住させた。
(3)また同じく戦争によって、人間が多かれ少なかれ法的な状況に入らざるをえないようにしたのである。
 
 カントがここで示そうとしているのは、人類は自然の働きを通じて様々な地域でそれぞれの民族に分かれて生存してきた、という事実。
 この事実は、世界国家の設立がいかに永遠平和を実現する方法としてふさわしくないかというカントの認識につながっている。「自然」が人間をさまざまな地域でそれぞれの民族に分散させて存在させてきた以上、世界国家という理想を掲げても、それは多くの民族を強者の論理で無理やり支配する悲劇しか生まない。永遠平和を実現するためには、「自然」がそうなっているという現実に合わせてその方法を探さなくてはならない。
 
戦争が人間を分散させた
115 ところで自然は人間が地上のあらゆる場所に住むことができるように配慮しただけでなく、人間がその好みに反してでも、いたるところで生きるべきであることを独断的に望んだのである。ところがこの「べきである」というのは、ある義務の観念に基づいて、人間が道徳的な法によって拘束されるという意味ではない。自然はこの目的を実現するために戦争を選んだという意味であり、それは次のことからも明らかであろう。同じ言葉を使うことから、原初においては統一されていたことが分かる民族がわかれて住んでいる例がある。サモイエード人のように氷の海の沿岸に住む民族と似た言葉を使う民族が、200マイルも離れたアルタイ山脈に住んでいるのである。この二つの民族の間に、騎馬を巧みにあつかう好戦的なモンゴル民族が割り込んできて、二つの民族を引き離し、片方を極北の荒野に追いやったのである。こうした民族がみずから好んで極地まで広がっていったのではないことはほぼ確実である。
 
戦争が国家の形成をうながした
117 ある民族に内的な不和がなく、公法の強制に服する必要を感じていない場合にも、戦争が外部からこれを強いることになるだろう。すでに指摘しておいたような自然の準備によって、どの民族も隣接する地のほかの民族に圧迫されることになり、それに対抗する力をもつためには、その民族は内部において国家を形成しなければならないのである。
 
 国家とは強制力(つまり武力)を組織することで法の支配を確立しようとする機構のこと。カントのいう「法的な状況」とは要するに国家状態のこと。
 もし社会の規模がそれほど大きくなく、またその内部の構造も極めて単純であれば、社会が維持されるためにわざわざ強制力が組織される必要はないかもしれない。つまりそれは国家なき社会、強制力の執行機関のない社会。
 しかし、そうした社会であっても、外部の勢力による侵略や征服、支配から自らの独立を守るためには、防衛力を整備しなくてはならない。防衛力を整備するということは、社会の中に強制力を持った機関を出現させるということ。つまり、外部の勢力から独立を守るためには、その社会の人びとは国家を形成せざるをえない。
 
 現実には、他国の統治に組み込まれたくなければ、その土地の人たちはみずから国家を形成するしかない。つまり、他国に組み込まれるにせよ、みずから国家を形成するにせよ、どちらにしても国家からは逃れられない。
 
利己心こそが国家を形成させる
120 国家の樹立の問題は、たとえどれほど困難なものと感じられようとも、解決できる問題である。悪魔たちであっても、知性さえ備えていれば国家を樹立できるのだ。これは次のように表現できる。「ある一群の理性的な存在者がいて、自己保存のためには全体としては普遍的な法則の適用を求めるが、自分だけはひそかにその法則の適用をまぬがれたいと願っているとする。この一群の人びとに秩序を与え、体制を樹立させて、個人としての心情においては互いに対立しあっていても、公的な行動においては、私情を互いに抑制させ、悪しき心情などなかったかのようにふるまわせるにはどうすればよいか」。この問題は解決可能なはずである。ここで求められているのは、人間を道徳的に改善することではなく、自然のメカニズムを機能させることだからだ。
 
 すべての人たちは心情的には互いに対立し合っていても行動的には法に従っているという「法的な状況」が出現する。
 国家を形成するために人間は道徳的にすぐれた存在になる必要はない。それどころか、人間に利己心と自己保存の欲求さえあれば国家は形成される。
 
「商業の精神」は戦争と両立しない
122 他方ではまた自然は、互いの利己心を通じて、諸民族を結合させているのであり、これなしで世界市民法の概念だけでは、民族の間の暴力と戦争を防止することはできなかっただろう。これが商業の精神であり、これは戦争とは両立できないものであり、遅かれ早かれすべての民族はこの精神に支配されるようになるのである。というのは、国家権力のもとにあるすべての力と手段のうちでもっとも信頼できるのは財力であり、諸国は道徳性という動機によらずとも、この力によって高貴な平和を促進せざるをえなくなるのである。
 そして世界のどこでも、戦争が勃発する危険が迫ると、諸国はあたかも永続的な同盟を結んでいるかのように、仲裁によって戦争を防止せざるをえなくなるのである。戦争をするための大規模な同盟はその性格からしてきわめて稀なものであり、成功する可能性はごくわずかなのである。
 
永遠平和とは人類にとって運命なのか
126 ところでここで、自然があれこれのことを意志するというのは、自然が人間にそれを行うことを義務として定めているということを意味するのではない。これを行うことができるのは、強制されることのない実践理性だけだからである。自然が意志するというのは、人間が好むかどうかにかかわらず、自然がみずからそれをなすということである。「運命は欲するものを導き、欲せざるものは無理やり引きずってゆく」というではないか。
 
 実践倫理=カント倫理学の用語。人間が自律した状況の中で(つまり何かを強制されているわけではない状況の中で)道徳的な義務をみずからに課すときの理性の働きを指している。たとえば、噓をついてもバレない状況の中でそれでも噓をつかないという義務を自らに課すときの理性の働き。
 
 こうした実践倫理と対比されているということは、「自然」は人間に永遠平和を強制するものとしてここでは考えられているということ。
 そうである以上、やはり「自然」は人間に対して永遠平和をさけることのできない「運命」として定めているのであり、人間はみずからの「本性」にしたがって利己的にふるまってさえいれば永遠平和を手にすることができる、とカントは考えていたことになるのではないか。
 
自然の中の理性の役割とは
127 さてここで永遠平和の意図にかかわる本質的な問題を考察しよう。自然は永遠平和を意図することで、人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的を実現させるために、すなわち人間の道徳的な意図を助けるために、何をするのだろうか。
 
 人間自身の理性の働きでみずから義務とする目的=平和
 
 カントが示そうとしているのは、人間が理性の働きの下で永遠平和を実現しようと努力するなら、それを「助け」てくれるような自然の働きが確かに存在する、ということまで。それいじょうではない。
 
 自然はこのような方法で人間に備わる自然な傾向を利用しながら、永遠平和を保障しているのである。もちろんこの保証は、永遠平和の将来を理論的に予言することのできるほどに十分なものではないが、実践的な観点からは十分なものであり、単なる夢想にすぎないものではない。この目的に向かって努力することが、われわれの義務となっているのである。
 
 
第4章 カントがめざしたもの
哲学的土台としての「付録」
 
道徳と政治の一致
付録
1. 永遠平和の観点から見た道徳と政治の不一致について
(永遠平和という見地から見た道徳と政治の不一致について)
2. 公法を成立させる条件という概念に基づいた道徳と政治の不一致について
(公法の先験的概念による政治と道徳の一致について)
 
136 政治は「蛇のごとくに怜悧であれ」と語り、道徳はこの命令を制限する形で、「しかも鳩のごとくに偽ることなく」とつけ加える。もしもこの二つが一つの命令のうちで両立できないならば、政治と道徳のあいだには実際に争いがあることになる。
 
 永遠平和のためには両者は一致すべきだとカントが考えていたからに他ならない。
 
 こうして真の政治は、あらかじめ道徳に服していなければ、一歩も前進できないのである。たしかに政治は困難な技術ではあるかもしれないが、道徳と政治を一致させることは、技術の問題ではないのである。(中略)むしろ政治は道徳の前に屈しなければならない。しかしそのことによってこそ、政治が輝き続けることができる状態にまで、たとえゆっくりとではあっても、進歩することを希望することができるのである。
 
法による政治の制約
138 しかし法の概念を政治と結びつけることがどうしても必要であり、法の概念を政治を制約する条件にまで高める必要があることを考えると、政治と法の概念をどうにかして結合させねばならない。
 
140 公法の状態を実現することは義務であり、同時に根拠のある希望でもある。これが実現されるのが、たとえ無限に遠い将来のことであり、その実現に向けてたえず進んでいくだけとしてもである。だから永遠平和は、これまでは誤って平和条約と呼ばれてきたものの後に続くものはないし(これはたんなる戦争の休止にすぎない)、たんなる空虚な理念でもなく、実現すべき課題である。この課題が次第に実現され、常にその目標に近づいてゆくこと、そして進歩を実現するために必要な時間がますます短縮されることを期待したい。
 
 公法の状態を実現すること=諸国家の関係
 
 世界国家なるものを想定することなく、いかにして政治(=国家)を法にしたがわせることが可能となるのか
 
道徳と政治の一致をつうじて公法の状態は可能となる
142 すでに指摘したように、国際法がそもそも可能であるためには、まず法的な状態が存在していなければならない。この法的な状態がない自然状態では、どのような法を考えても、それは私法にすぎない。さらにこれまで検討してきたように、戦争の防止だけを目的として諸国家が連合することが、諸国家の自由を妨げることのない唯一の法的な状態である。だから政治と道徳が合致するためには、連合的な組織が必要なのである。この連合的な組織は、原則に基づいた法の原理によって与えられる必然的なものなのである。
 
↑永遠平和を実現するためのカントの構想
・世界国家は諸国家の自由を妨げるため、永遠平和とは対極であること
・諸国家の自由を妨げることのない諸国家の連合こそが、諸国家のあいだに「法的な状態」を確立するのにふさわしいものであること
・この諸国家の連合は法の原理のもとで可能となるのであり、その法の原理を通じて政治と道徳も合致すること
 
法の土台としての道徳
145 人間のうちの道徳的な原理は決して消滅することがないのであり、この原理にしたがって着実に法の理念を実現しようとする理性は、進歩をつづける文化を通じてつねに成長していくのである。
 
カントにおける道徳概念
147 道徳とは、無条件にしたがうべき命令を示した諸法則の総体であり、すでにそれだけで客観的な意味における実戦であり、人間はこれらの諸法則にしたがって行動すべきなのである。だから道徳という義務を認めておいて、あとでそれにしたがうことができないと言うならば、それは明らかに矛盾したことである。
 
 しかし、私たちは自分の行為の結果をコントロールできるという前提で、
 「噓をついた結果、友人は助かる」
 「本当のことをいった結果、友人は殺される」
 という二つを比べて、噓をつくことを選択する。結果が異なるものを比較すれば、結果のよいほうを選ぶのは当然。
 とはいえ、こうした比較では「嘘をついてはならない」という道徳を正当に評価することはできない。というのもそこでは条件(この場合は、友人が助かるか殺されるかという結果)が違うものを比べているから。「嘘をついてはならない」という道徳を正当に評価するためには、比較の対象の条件を同じにする必要がある。つまり、
 「嘘をついた結果、友人は殺されてしまう」
 「本当のことを言った結果、友人は殺されてしまう」
 という比較。
 もし「友人は殺されてしまう」という条件が同じなら、私たちはどちらのほうにより罪悪感を抱くでしょうか。当然「嘘をついた場合」です。そちらの場合の方がわたしの作為がより強く作用しているから。それだけ私たちは「嘘をついてはならない」という道徳に価値をおいている。
 これこそ、カントが「無条件に」ということを強調する理由。
 特定の具体的条件のもとでは私たちは道徳の価値を正当に考察することができない。条件をフリーにすることで(すなわち条件を無化することで)はじめて私たちは道徳がどのような力をもっているのかを認識することができる。
 カントが道徳を考えるときに、人間は自分の行動の結果をコントロールすることができないという前提に立つのも、同じ理由から。そうした前提に立つことは、道徳をとりまく具体的な条件を無化することに他ならない(行動の結果はわからないという前提にたつことになるため)。
 
道徳の形式から出発すべき
151 実践哲学における自己矛盾をなくし、実践理性の課題を実現するためには、理性の内容的な原理から出発するのか、形式的な原理から出発するのかをまず決定しておく必要がある。
理性の内容的な原理は、意思の任意の対象としての目的を重視するものであり、
理性の形式的な原理は、目的の持つ内容そのものは問わずに、外的な関係における自由だけに依拠して、「汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意思に従って行動せよ」と命じるのである。
 ところで実践哲学においては、この形式的な原理を優先する必要があるのは疑えないところである。この形式的な原理は法原理として、無条件的な必然性を備えているからである。
 
 ここでいう「実践」とは「道徳」のこと。「道徳哲学」「道徳をめぐる理性(考え)」
 
 カントが道徳を「内容」と「形式」に分けていること。引用文の内容を要約すると次のようになる。すなわち、実践哲学には道徳の「内容」から出発するやり方と、道徳の「形式」から出発するやり方があるが、実践哲学は本来「形式」から出発すべきである、と。
 道徳の「内容」→個々の道徳における具体的な内容を指している。たとえば「嘘をついてはならない」という道徳命題がそれに当たる。
 こうした道徳の「内容」はどうしても特定の条件と切り離せない。たとえば「暴漢から友人を助けるために嘘をつくことは許されるか」といった問いのように。
 「理性の内容的な原理は、意思の任意の対象としての目的を重視する」→「暴漢から友人を助けるために」とうのがここでいう「目的」にあたる。つまり、道徳の「内容」から出発するかぎり、実践哲学は「暴漢から友人を助けるために」といった目的に振り回されてしまい、道徳について正しく考察することができなくなってしまう。
 こうした弊害を避けるために、実践哲学は道徳の「形式」から出発しなくてはならない、とカントは主張している。
 その道徳の「形式」とは、道徳からあらゆる「内容」を取り除いたもの
 道徳からあらゆる「内容」を取り除けば、道徳は具体的な特定の条件からも切り離される。無条件にしたがうべきだと迫ってくる本来の姿をあらわすことになる。引用文ではそれを「無条件的な必然性」と表現している。
 
道徳の形式的な原理とは何か
154 「誰がやっても問題ないと思えることを、自分はする」というのが道徳の「形式」にあたる。
 道徳からあらゆる具体的な「内容」を取り除いたうえで、それでもなおその道徳が「正しい」と言えるためには、「自分だけでなく誰がやっても問題ないと言えるかどうか」を基準にするしかない。自分だけは許される、という行為は決して道徳的な正しさを獲得できないから。
 →「汝の主観的な原則が普遍的な法則となることを求める意思に従って行動せよ」
 →「自分がとろうと思っている行動の原則が誰がやっても問題ないといえるものとなるように行動せよ」
 →「誰がやっても問題ないと思えることだけをおこなえ」
 道徳の「普遍化可能性」とでもいうべきもの。「
 
法における普遍性への志向性
「この形式的な原理は法原理として、無条件的な必然性を備えているからである。」
 
法に制約されてしまうという必然性
158 法による政治の制約が可能になるのは、こうした法の形式的な原理によって。
 
法の公開性という形式
160 国家における国民と国家間の関係に関して経験によって与えられている様々な関係から、法学者が普通想定するような公法のすべての内容を捨象してみよう。すると残るのは公開性という形式である。いかなる法的な要求でも、公開しうるという可能性を含んでいる。公開性なしにはいかなる正義もありえないし(正義というのは、公に知らせうるものでなければかんがえられないからだ)、いかなる法もなくなるからだ(法というものは、正義だけによって与えられるからだ)。
 
 公開性=公開しうるという可能性
 
 法は、それがいかなる悪法であっても、正義に根ざしていると主張することでみずからを正当化する。ただしその正義は私的なものであることはできない。なぜなら法それ自体が、人びとに対して「みずからにしたがうべき」という公的な要求をするものだから。そうである以上、法が主張する正義は公に認められうるものであらざるをえない。と同時に、そうした正義に基づく(と少なくとも主張する)法も決して公開性なしにはなりたたない。
 
 近年ではアカウンタビリティ」(説明責任)という概念が、法の内容についても政府の政策についても厳しく問われるようになった。「アカウンタビリティ」とは、公的に説明がつくかどうかをその「正しさ」の根拠にすべきだ、ということを求める概念。公的に説明がつかないかぎり、その政策なり法の内容は正しいとは考えられない。
 
カントの形式愛
163 人間愛と人間の方に対する尊敬は、どちらも義務として求められるものである。しかし人間愛は条件付きの義務にすぎないが、法にたいする尊敬は無条件的な義務であり、端的に命令する義務である。法に対する尊敬の義務を決して踏みにじらないことを心から確信している人だけが、人間愛の営みにおいて慈善の甘美な感情に身をゆだねることが許されるのである。
 
 人間愛とはあくまでも道徳における一つの「内容」。「形式」ではない。
 
 カントはこうした「条件付きの義務」である人間愛よりも「無条件的な義務」である「法にたいする尊敬」を優先させるべきだと述べている。道徳の「内容」ではなく「形式」を重視せよ、ということ。
 
 カントの墓碑銘「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」
 
 
読書案内
 
あとがき

読んだ。 #宮本常一 「忘れられた日本人」を訪ねて 別冊太陽 日本のこころ 148 #平凡社

読んだ。 #宮本常一 「忘れられた日本人」を訪ねて 別冊太陽 日本のこころ 148 #平凡社
 
15歳で大正12年(1923年)4月に故郷の山口県周防大島を離れるときに、父親の善十郎さんが旅の暮らしのなかで身につけた、これだけは忘れぬようにと言われた十カ条。
 
①汽車に乗ったら窓から外を良く見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちが良いか悪いか。村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。
駅に着いたら人の乗り降りに注意せよ。そして、どういう服装をしているかに気をつけよ。また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。
②村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ。
峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮やお寺や目につくようなものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ。そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへは必ず行って見ることだ。高い所でよく見ておいたら道にまようことはほとんどない。
③金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。
④時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろなことを教えられる。
⑤金というものは儲けるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。
⑥私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえに何も注文しない。すきなようにやってくれ。しかし身体は大切にせよ。三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。しかし三十をすぎたら親のあることを思い出せ。
⑦ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。親はいつでも待っている。
⑧これから先は子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。
⑨自分でよいと思ったことはやってみよ。それで失敗したからといって親は責めはしない。
⑩人の見のこしたものを見るようにせよ。そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。
 
・大阪逓信講習所 - 大阪市北区中野町二丁目(現在の大阪市都島区中野町)
 
・大阪高麗橋郵便局
 

48 芦田恵之助 生活綴方運動

 
アチックの研究スタイル
「物質文化への着目」
柳田國男「方言周圏論」「民俗語彙」など言葉主義と言えるほどの論理展開に対し、渋沢はモノからヒトの営みの跡を読み取り、人間文化を解明するという、徹底した科学的態度を志向した。
「足半」では鼻緒の結び目や編んだ藁紐の通し方などを正確に見るために、レントゲン撮影を導入。
 
73 八学会とは、民族学民俗学、人類学、社会学言語学、地理学、宗教学、考古学の各界専門家たちが協力し横断的に調査を行う活動
 
138 宮本常一の遺作『日本文化の形成』(全三巻 そしえて 1981)は、当時の考古学や生物遺伝学の最新成果を、豊かな民俗学的人間観の中で統合したきわめて注目すべき論考である。現代考古学の用語で言えば優れた民族考古学的著作と言える。
 その中の論考「日本文化にみる海洋的性格」において宮本は「越」の民に注目している。越の勢力範囲は河南の海岸一帯から、浙江省福建省広東省、広西省(現在の広西チワン族自治区)、そしてベトナムにわたっており、竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国であったとする。そしてこの民族に属する一派が倭人であると考えている。
 宮本によると、この人たちがもたらしたものが弥生文化であった。つまり、弥生文化は海洋性の強いものであるとともに、稲作をもたらした文化なのである。しかもその稲作には鉄文化が付随していた。また倭人に関して、船を持ち、しかも対岸の人たちとも同種同文化を持っているとすれば、海の彼方と比較的容易に交流することができる。日本列島へ稲作が普及していく速度も速かったが、一つには、水路を伝って船を利用してひろがっていったものではないか、というのである。
 さらに、登呂遺跡のように水田のほとりに住居があるためには、住居は土の乾くところに存在しなくてはならないし、水田も耕作しないときは水を落として乾くようにしていたであろうと推測する。宮本は水田農耕の技術を持った人々の多くは、家族が船を家にしていたのではないかと考えている。その多くは筏を汲み、筏の上に床や小屋をつくって家族そろって生活する。揚子江西江ではこのような船住居の人びとは鵜を飼い、鵜を利用して魚をとっている。これは倭人の工夫した技法というより江南から海を越えてもたらされた技法と見るべきであろう。また川を遡るには底が浅い方がゆうりであるし、幅が広いので家族が乗り込むことができ、必要な食物やその種類を積むことが可能である。その筏はまた帆をはったものであろうと推測する。

読んだ。 #忘れられた日本人 #宮本常一

読んだ。 #忘れられた日本人 #宮本常一
 
1960(昭和35)年に発表されたものとのこと。
土佐源氏」は1941年(昭和16年)、対馬は1950年(昭和25年)の調査によるものとのこと。
柳田國男とは異なるアプローチ。
 
対馬にて
一 寄りあい
16 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは200年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。70をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても3日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。1つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。
 
二 民謡
23 こうして道をあるいていて思ったことだが、中世以前の道はこういうものであっただろう。細い上に木がおおいかぶさっていて、すこしも見通しがきかない。自分がどこにいるかをたしかめる方法すらない。おなじ道を何回も通っても迷うということはよくわかる。狐狸の人を化かす話も、こういう道をあるいてみないとわからない。また夜はまったくあるけるものではない。まだ日は山の7合目から上あたりを照らしているはずだが、谷間の樹下の細道はすでに夜のように暗い。
 
24 私もそこで一息いれて、こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、「それにはよい方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞという声をたてることだ」と一行の中の70近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと「歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。私もなるほどと思った。と同時に民謡が、こういう山道をあるくときに必要な意味を知ったように思った。
 
28 対馬でも宿屋へとまるのならば朝昼晩と食事をするが、農家へとめてもらうと、朝と晩はたべるけれど、とくに昼飯というものはたべないところが多い。腹のすいたとき、何でもありあわせのものを食べるので、キチンとお膳につくことはすくない。第一農家はほとんど時計をもっていない。仮にあってもラジオも何もないから一定した時間はない。小学校へいっている子のある家なら多少時間の観念はあるが、一般の農家ではいわゆる時間に拘束されない。私は旅の途中で時計をこわしてから時計をもたない世界がどういうものであったかを知ったように思った。
 
31 男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。女が男にからだをかけさせることはすくなかったというが、とにかくそこまでいく。鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡礼に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという。前夜の老人が声がよくてよいことをしたといわれたのはこのことであった。明治の終り頃まで、とにかく、対馬の北端には歌垣が現実にのこっていた。巡拝者たちのとまる家のまえの庭に火をたいて巡拝者と村の青年たちが、夜のふけるのを忘れて歌いあい、また踊りあったのである。そのときには嫁や娘の区別はなかった。ただ男と女の区別があった。歌はただ歌うだけでなく、身ぶり手ぶりがともない、相手との掛けあいもあった。
 
 
村の寄りあい
37 60歳をすぎた老人が、知人に「人間1人1人をとって見れば、正しい事ばかりはしておらん。人間3代の間には必ずわるい事をしているものです。お互にゆずりあうところがなくてはいけぬ」と話してくれた。それには訳のあることであった。その村では60歳になると、年より仲間にはいる。年より仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話しあわれる。かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。知人も40歳をすぎるまで年より仲間にそうした話しあいのあることを知らなかった。老人から話の内容については一言もきかされなかったが、解放に行きなやんでいるとき「正しいことは勇気をもってやりなさい」といわれて、なるほどと思った。
 
39 他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。そして年とった物わかりのいい女の考え方や見方が、若い女たちの生きる指標になり支えになった。何も彼も知りぬいていて何にも知らぬ顔をしていることが、村の中にあるもろもろのひずみをため直すのに重要な意味を持っていた。
 
40 そうした生活の救いともなるのが人々の集りによって人間のエネルギーを爆発させることであり、今一つは私生活の中で何とか自分の願望を果そうとする世界を見つけることであった。前者は祭とか家々の招宴の折に爆発して前後を忘れた馬鹿さわぎになり、後者は狭い村の中でなお人に見られぬ個人の行為となって来る。とくに後者の場合は姑と嫁の関係のようなものの外に、物ぬすみとなったり男女関係となってあらわれる。
 若い男女の性関係は今よりもルーズであったと思われるが、それが婚姻生活の後までもながく尾をひくことがあって、女一人でさばききれなくなると、世話焼きばっばのたすけを借らねばならぬことが多かったのである。
 
42 福井県敦賀の西にある半島の西海岸をあるいていた時のことであったが、道ばたの上に小さいお堂があって、しきりに人声がするのであがってみると、10人ほどの老女がせまいお堂の中で円座して重箱をひらいて食べているとこであった。きけば観音講のおこもりだとのことで、60になるとこの仲間に入って、時々こうしておこもりしたり、また民家であつまって飲食をともにして話しあうのだという。
 
43 他所者の若い男二人であったから遠慮なく何でもはなせたのであろうが、観音講のことについて根ほり葉ほりきいていくと、「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向って嫁に辛くあたらなくてもすむという
 ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であった時があるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げの口されたことはないという。つまりこの講は年よりだけの泣きごとの講だというのである。私はこれをたいへんおもしろいことだと思った。自らおば捨山的な世界をつくっているのである。
 
44 年齢階梯制のはっきりしている社会は非血縁的な地縁集団が比較的つよいところです。無論村の中に血をおなじくする同族集団が内在しているのではあるが、1つや2つではなくていくつもあります。そして同族の者が1つの地域に集って住むのではなくてむしろ分散し、異姓の者と入交っている所が多い。
そういう傾向は瀬戸内海の島々や九州西辺の島々にはとくにつよく見られる。姓を異にした者があい集って住む場合には村の中で異姓者の同業または地縁的な集団が発達して来る。そういう社会では早くからお互の結合をつよめるための地域的なあつまりが発達した。この集りを寄りあいといっている。寄りあいのもっとも多いのは宗教儀礼にちなむものであるが、その外にもいろいろの村仕事の際にもおこなわれている。
 
46 著者は「衆」という瀬戸内地方の下級武士、または農漁民町人など生産者の間でつくられる同業者の集団を取り上げ、以下のように述べています。
 三島衆・塩飽衆などといわれるものがこれであり、その衆という文字はすでに鎌倉時代の文献にもみえる一結衆などにつながるものであろう。一結衆というのは今日の講仲間のことであり、地蔵講・念仏講など、比較的古くから各地で発達をみており、瀬戸内海西部にある小島の八島においてすら、地蔵の一結衆が至徳4年(1387)にみられている。そのほかこの地方に中世に書写された大般若経などのたくさんのこっていることから考えても、般若講など古くからおこなわれていたものと思われる。
 
49 寄りあいというものは戸主の集るものとされているものが多いようであるが、そういう席へ女が代理で出て来ることは少くない。そんな時には女はほとんど発言しないで片隅にいて話だけきいているのが普通のようであるが、女だけの寄りあいもまたおこなわれることがある。これは村こぞっておこなうというようなことはすくなく、たいてい有志の集りである。そしてそれも村の慣行自治に関するものではなく、親睦か信仰または労作業を主としたものであり、そのうち茶飲みという集りはきわめて頻繁にくりかえされて来たのが瀬戸内海地方では一般に見られたところである。お茶に漬物程度のごく粗末な食物で、ごく狭い範囲の女が集ってほんの1、2時間おしゃべりをして別れるのである。子供の髪洗い、名付け、宮参り、百ヵ日をはじめ、家々の招宴の場合にも男が集るほどのこともないような披露を主とする招客はしばしばおこなわれるもので、そういう時にはたいてい女があつまる。そのほか灸すえとか、女だけのいろいろの作業のはじめまたは終には集って簡単な飲食をすることが多い。
 
50 そういう集りがもとになって作業などきめる集りもおこなわれる。作業の中では田植の早乙女や養蚕の盛んなころには共同飼育の当番ぎめなどたいてい女の集りによっておこなわれていたし、また家普請や葬儀などにも女だけの協力作業はあるもので、そういう事を中心にした集りもおこなわれていた。そうした主婦連中の集りの上に、隠居した年よりの集りが別にあったのである。隠居の場合は男または女で別々に集る場合もあるが、講会のようなものには男女ともに集ることが多かった。
同様に、結婚以前の青年男女も若衆組、娘仲間をつくって集りをすることは多く、こうした多くのグループが村の中に層序をなしているところは中部地方の西半から西にかけては少くないのである。
 
51 名倉村で年よりたちに集ってもらって座談会をしたとき、老人たちがみんなでまず面白そうに話し出したのが万歳峠のこと。
 はじめは何のことかよくわからなかったのだがききただしてみると、村から山をこえて田口の方へ出ていく峠のことである。日清戦争の時まではその峠の頂上まで出征兵を見送って万歳をとなえて別れて来たのであるが、峠の上で手をふって別れると、送られる方はすぐ谷のしげみの中に姿がかくれてしまう。そこで別れ場所を峠の頂上より5丁あまり手まえの所にした。そこで、別れの挨拶をして万歳をとなえ、送られる方はそれから振りかえりながら、5丁あまりを歩いて峠の向うへ下っていくのである。こうして万歳峠が、峠の頂上から5丁手前に来たのは日露戦争の時からであったという。まことにこまかな演出ぶりである。こうした事に村共同の意識の反映をつよく見ることができる。
 
54 年齢階梯制の濃厚なところでは隠居制度がつよくあらわれるのが普通であるが、隠居制度はその起源や起因についてはここにしばらくおくとしても、これを持ちつたえさせたのは、非血縁的な地縁共同体にあったと思われる。そういう村では、村共同の事業や一斉作業がきわめて多かった。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕など、古風を多くのこす対馬の場合など、こうした共同事業・一斉作業・公役などについやす日数が年間百日内外に達するかと思われる。それ以外の日で自分の家の農作業にしたがわねばならないのであるから、自家経営は自ら粗放にならざるを得ないのである。そして、このうち公役は時代をさかのぼるほど多かったと見られる。
 
57 この寄りあい制度がいつ頃完成したものであるかは明らかでないが、村里内の生活慣行は内側からみていくと、今日の自治制度と大差のないものがすでに近世には各村に見られていたようである。そしてそういうものの上に年より衆が目付役のような形で存在していた。ただ物のとりきめにあたって決定権は持っていなかった。と同時に寄りあいでのはなしあいには、お互の間にこまかな配慮があり、物を議決するというよりは一種の知識の交換がなされたようであり、個々の言い分は百姓代や畔頭たちによって統一せられて成文化せられたのである。
 
 
名倉談義
62 そのとき、きいていて大へん感動したのは、金田金平さんが夜おそくまで田で仕事をする。とくに重一さんの家のまえの田では夜八時九時まで仕事をした。重一さんの家はいつもおそくまで表の間に火がついていたので、そのあかりで仕事ができたと言ったら、小笠原シウさんが、それはいつもおそくまで火をつけていたのではなくて、今日は金平さんが仕事をしているから、また夜おそくなろうと、わざわざ明るくしてやっていたとはなし、しかも、この座談会でそれが語られるまで、一方はその好意を相手につたえておらず、相手の方は夜のおそいうちだと思いこんでいたという事実である。村共同体の中にこうした目に見えないたすけあいがあるものだと思った。無論それと反対の目に見えないおとしあいもあるのであるが、、、。
 
66 小笠原 ~それにしても女は損なものでありました。月のさわりがありますので・・・・・・。あれでどれ位損をしたことか。このあたりはごへいかつぎが多うして月のさわりをやかましく言うところで、もとは一軒ごとにヒマゴヤがありました。そうしてさわりがはじまるとそこへはいって寝起もし、かまども別にして煮炊きしたものであります。いっしょにたべたのでは家の火がけがれるといって、しかしわたしの十五歳の頃には大分すたれました。
(中略)
この山の向こう側にある宇連というところにはつい近頃までヒマヤがありました。
 このあたりでは、ヒマヤは早くなくなりましても、月のさわりのときは、仏様へお茶湯をあげることもならず、地神の藪へは十二日間もはいってはいけぬことになっておりました。
 
金田茂 清水の酒屋、原田甚八郎の家には本家にひさしをつけて、そこをヒマヤにしていました。ヒマヤは一坪ほどのものでありました。
 
小笠原 女はヒマのときは男の下駄をはいてもいけないものでありました。いまでもわたしらのような年寄りは腰巻は日のあたるところへはほしません。また腰巻をひろげてほすこともありません。わたしのうちの若い嫁などそういう事はしませんが、わたしは自分の気がすみませんけに、自分のだけはかげにほしております。
 
79 今の言葉でいうとスリルというものがないと、昔でもおもしろうなかった。はァ、女と仲ようなることは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押かけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい。親はたいてい納戸へねています。若い者は台所かデイへねている。仕事はしやすいわけであります。音のせんように戸をあけるにはしきいへ小便すればよい。そうすればきしむことはありません。それから角帯をまいて、はしをおさえてごろごろっところがすと、すーっと向うへころがってひろがります。その上をそうっと歩けば板の間もあんまり音をたてません。闇の中で娘と男を見わけるのは何でもない事で、男は坊主頭だが、女はびんつけをつけて髪をゆうている。匂をかげば女はすぐわかります。布団の中へはいりさえすれば、今とちごうて、ずろおす※などというものをしておるわけではなし・・・・・・。みなそうして遊うだもんであります。ほかにたのしみというものがないんだから。そりゃァ時には悲劇というようなものもおこりますよの、しかしそれは昔も今もかわりのない事で・・・・・・。
 
86 敬太郎の家もくらしがまずしうて、その母親が子をつれて来ましてな、方々の家へたのんであるいていて、とうとう私の家へおいてかえったのであります。たのむといいましても、まあ、その家へいって「今晩一ばんとめて下され」とたのみます。たのめば誰もことわるものはありません。台所のいろりばたへあげて、夕飯を出して、しばらくははなしをしているとそのうちにみなそれぞれのへやへ寝にはいる。敬太郎のおふくろと敬太郎はいろりのはたにねるわけです。敬太郎のおふくろはそれがかなしうてならぬ。この子は自分がかえってしまったら、こういうように1人でここにねさせられるかもわからん。そう思うと「よろしくたのみます」ということができん。それであくる朝になると「いろいろ、おせわになりました」といって出ていく。とめた方も別にこだわることもなく「あいそのない事で」といって送りだします。こうして家々へとまって見て、親が気に入らねば、子どもをあずけなくてもよいわけであります。敬太郎のおふくろも方々あるいて見たが、どこの家も気に入らなかったようであります。それでわたしの家へ来た。わたしの祖母にあたるモトというばァさんがいました。夕飯がすんで一きりはなしをして、みなへやへはいっていったが、モトばァさんが「かわいい子じゃのう、わしが抱いてねてやろう」というと、その子がすなおに抱かれてねました。おふくろはそれを見て涙を流して喜んで、この家なら子どもをおいていけると思うて「よろしくたのみます」と言ってかえったそうであります。それから敬太郎はモトばァさんに抱かれてねて大きくなりました。
 
97 はァ、申すまでもなく、よばいは盛んでありました。気に入る娘のあるところまではさがしにいって通うたものであります。しかしなァ、みながみなそうしたものではありません。一人一人にそれぞれの性質があり、また精のつよいものはどうしても一人ではがまんができんという者もあります。あっちの娘のところへ通うた、こっちの娘のところへ通うたというのがあります。しかし、みな十六、七になると嫁に行きますから、娘がそうたくさんの男を知るわけではありません。よばいを知らずに嫁にいく娘も半分はおりましたろう。若い者がよけいにかようのは、行きおくれたものか、出戻りの娘の家が多かったのであります。はいはい、よばいで夫婦になるものは女が年上であることが多うありました。それはそれでまた円満にいったものであります。はい、男がしのんでいっても親は知らん顔をしておりました。あんまり仲ようしていると、親はせきばらい位はしました。昼間は相手の親とも知りあうた仲でありますから、そうそう無茶なこともしません。
 
 
子供をさがす
 
 
女の世間
111 歩く分には宿には困ることはありませだった。どこにも気安うにとめてくれる善根宿があって、それに春であったから方々からお接待が出て、食うものも十分にありました。お接待というのは親兄弟が死んだようなとき、供養のために、遍路に食うものを持ってきて施しをしよりました。
 
112 「食うものばかりではなかったんですのう」
 「あい、いろんなものをくれました。伊予の山の中では娘をもろうてくれんかといわれて・・・・・・何をさせて使うてくれてもかまわん。食わして大きくしてくれさえしたらええというておりました。よっぽど暮しに困っておりましっろう。遍路の中にも子供の手をひいてあるいているのがたくさんおりました。たいがいはもらい子じゃったようであります。この方には昔は伊予からもらうて来た子供がよけえおりましての。10人も20人もいたことがあります。中には買うて来た子もいたが、たいがいは親がよう育てんからもろうてくれといわれてもろうて来たもんであります」
 
122 田植は古くは乱れ植えであった。それが水縄(みなわ)とよばれる、縄のところどころに赤か青の節をつけたものをひいて、その節のあるところへ植える正条植が盛んになって今日までつづいている。考えて見ると大変非能率的なので定木をつくって使用してみた。これならば腰をのばすこともないので能率はずっとあがる。そこで、私は家族のもので植えるときにはこれをりようしたが、ついに一般化するようにはならなかった。一つには村に水田がすくなくて、あせって田を植えるほどの事もなかったのである。そして話も十分にできないような田植方法は喜ばれなかった。縄植ならば縄をひきかえるたびに腰をのばすのでつかれも少い、その上、手をやすめる時間もあって、おしゃべりもできるのである。しかしその田植がここ二、三年次第に能率化せられはじめた。女たちが田植組のグループをつくって、田を請負で植えるようになったのである。一反千円で引き受ける。こうすれば田の持ち主は御馳走をつくらなくていいし、また早乙女をやとい集める苦労もない。田植組に田植の大体の日を申しこんでおけば植えに来てくれる。これによって田植のご馳走をつくることや人をたのむ苦労からそれぞれの家の主婦は解放せられたのだが、田を持つ者は一日でも二日でも植えに出なければならない義務がある。それによって田植組は一定の労働力を獲得しているのである。この制度は女たちの発明であった。と同時に能率をあげれば収入もふえるので田植のおしゃべりも次第に少くなりつつある。話してもそれが一つの流れをつくらないで断片的な話になる。
 同時にまたラジオやテレビの普及が徹底してきて、主婦たちはみな標準語になれて来、これを使う術も知って来た。
 
124 「田植がたのしみで待たれるような事はなくなりました」。
 田を植えつつ老女の一人がこう話してくれた。田植のような労働が大きな痛苦として考えられはじめたのは事実である。それには女の生き方もかわって来たのであろう。やはり早乙女話の一つに、
 「この頃は面白い女(おなご)も少うなったのう……」
 「ほんに、もとには面白い女が多かった。男をかもうたり、冗談言うたり……ああ言う事が今はなくなった」
 「そう言えば観音様(隣村にいた女)はおもしろい女じゃった」
 「ありゃ、どうして観音様って言うんじゃろうか」
 「あんたそれを知らんので」
 「知らんよ……。観音様でもまつってあったんじゃろか」
 「何が仏様をまつるようなもんじゃろか。一人身で生涯通したような女じゃけえ、神様も仏様もいらだった」
 「なして観音様ったんじゃろうか」
 「観音様ってあれの事よ」
 「あれって?」
 「あんたも持っちょろうが!」
 「いやど、そうの……」
 「あれでもう三十すぎのころじゃったろうか。観音様が腰巻一つでつくのうじょって(うずまって)いたんといの。昔の事じゃのう。ズロースはしておらんし、モンペもはいておらんから、自分は腰巻していると思うても、つくなめば前から丸見えじゃろうが……」
 「いやど、そがいな話の……」
 「そうよ、それを近所の若い者が、前へまたつくなんで、話しながら、チラチラ下を見るげな。「あんたどこを見ちょるんの」って観音様が例の調子でどなりつけたら、若いのが「観音様が開帳しているので、拝ましてもろうちょるのよ」と言ったげな。そしたら「観音様がそがいに拝みたいなら、サァ拝みんさい」って前をまくって男の鼻さきへつきつけたげな。男にとって何ぼええもんでも鼻の先へつきつけられたら弱ってのう、とんでにげたんといの。それからあんた、観音様って言うようになったんといの。それからあんた、若い者でも遊びにでも行こうものなら「あんた観音様が拝みたいか」っておいかえしたげな」
 
 
 「わしゃ足が大けえてのう、十文三分はくんじゃが……」
 「足の大けえもんは穴も大けえちうが……」
 「ありゃ、あがいなことを、わしらあんまり大けえないで」
 「なあに、足あとの穴が大けえって言うとるのよ」
 「穴が大けえと、埋めるのに骨がおれるけに」
 「よっぽど元気のええ男でないとよう埋めまいで……」
 「またあがいなことを……」
 
 これも田を植えながらの早乙女たちの話である。植縄をひいて正条植をするようになって田植歌が止んだ。田植歌が止んだからと言ってだまって植えるわけではない。たえずしゃべっている。その話のほとんどがこんな話である。
 「この頃は神様も面白うなかろうのう」
 「なしてや……」
 「みんなモンペをはいて田植するようになったで」
 「へえ?」
 「田植ちうもんはシンキなもんで、なかなかハカが行きはせんので、田の神様を喜ばして、田植を手伝うてもろうたもんじゃちうに」
 「そうじゃろうか?」
 「そうといの、モンペをはかずにへこ(腰巻)だけじゃと下から丸見えじゃろうが田の神さまがニンマリニンマリして……」
 「手がつくまいにのう(仕事にならないだろう)」
 「誰のがええ彼のがええって見ていなさるちうに」
 「ほんとじゃろうか」
 「ほんとといの。やっぱり、きりょうのよしあしがあって、顔のきりょうのよしあしとはちがうげな」
 「そりゃそうじゃろうのう、ぶきりょうでも男にかわいがられるもんがあるけえ……」
 「顔のよしあしはすぐわかるが、観音様のよしあしはちょいとわからんで……」 「それじゃからいうじゃないの、馬にはのって見いって」
 
 こうした話が際限もなくつづく。
 「見んされ、つい一まち(一枚)植えてしもうたろうが」
 「はやかったの」
 「そりゃあんた神さまがお喜びじゃで……」
 「わしもいんで(帰って)亭主を喜ばそうっと」
 
129 無論、性の話がここまで来るには長い歴史があった。そしてこうした話を通して、男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福であることを意味している。したがって女たちのすべてのエロ話がこのようにあるというのではない。
 女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである。
 
 
135 そのころからわるい事をおぼえてのう。雨の日にはあそぶところがない。子守りらはどこかの納屋に三、四人ずつ集まってあそびよった。そうして子供がねむりよると、おろしてむしろの上にねかして守りは守りであそぶのよ。あそぶといってもこれという事もない。積んである藁の中へもぐったり、時にはまえをはだけて、股の大きさをくらべあわせたり、×××をくらべあわせたり、そこへ指をいれおうてキャアキャアさわぐ。おまえのも出せちうて、わしのも出させておもしろがっていろいよる。そのうちにな、年上の子守りが、「××するちうのはここへ男のをいれるのよ、おらこないだ、家の裏の茅のかげで、姉と若い衆がねているのを見たんじゃ。おまえもおらのにいれて見い」いうてな、わしのをいれさせた。それがわしのおなごを知ったはじめてじゃった。別にええものとも思わなかったし、子守りも「なんともないもんじゃの」いうて・・・・・・。姉はえらいうれしがりよったがと、不審がっておった。
 それでもそれからあそびが一つふえたわけで、子守りたちがおらにもいれて、おらにもいれていうて、男の子はわし一人じゃて、みんなにいれてやって遊ぶようになった。たいがい雨の日に限って、納屋の中でそういう事をしてはあそうだもんじゃ・・・・・・。
 
142 わしはこれという家もない。生まれ故郷も婆が死んで、あとは伯父だけじゃでかえっても家がない。親方のなじみの後家の家を、あっちこっちと渡りあるいて、可愛がってもろうてそれで日がくれた。
 わしらみたいに村の中にきまった家のないものは、若衆仲間にもはいれん。若衆仲間にはいっておらんと夜這いにもいけん。夜這いにいったことがわかりでもしようものなら、若衆に足腰たたんまで打ちすえられる。そりゃ厳重なもんじゃった。じゃからわしは子供の時に子守りらとよく××したことはあったが、大人になって娘を寝たことはない。わしのねたのは大方後家じゃった。一人身の後家なら表立って誰も文句を言うものはない。
 
156 どんな女でも、やさしくすればみんなゆるすもんぞな。とうとう目がつぶれるまで、女をかもうた。そしてのう、そのあげくが三日三晩目が痛うで見えんようになった。極道のむくいじゃ。わしは何一つろくな事はしなかった。男ちう男はわしを信用していなかったがのう。どういうもんか女だけはわしのいいなりになった。
 わしにもようわからん。男がみな女を粗末にするんじゃろうのう。それで少しでもやさしうすると、女はついて来る気になるんじゃろう。そういえば、わしは女の気に入らんような事はしなかった。女のいう通りに、女の喜ぶようにしてやったのう。
(中略)
 あんたも女をかまうたことがありなさるじゃろう。女ちうもんは気の毒なもんじゃ。女は男の気持になっていたわってくれるが、男は女の気持になってかわいがる者がめったにないけえのう。とにかく女だけはいたわってあげなされ。かけた情は忘れるもんじゃアない
 
土佐寺川夜話
「土佐寺川夜話」では、土佐山中の農民の生活について紹介されます。ちょうど戦争が始まったばかりの昭和20年12月9日のこと、著者は伊予の小松から土佐の寺川という所に向かいました。途中、原生林がありました。著者は以下のように述べています。
 
160 その原始林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋に風呂敷包を襷にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道一本です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分らないと答えました。そのうち少し気持もおちついて来たので「婆さんはどこから来た」ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。『こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ』と聞きとりにくいカスレ声で申します。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸のいたむ思いがしました。
 
 
梶田富五郎翁
172 「爺さんは山口県の久賀のうまれじゃそうなが、わしも久賀の東の西方の者でのう、なつかしうてたずねて来たんじゃが・・・・・・」
 と話しかけると、
 「へえ、西方かいのう、へえ、ようここまで来んさったのう・・・・・・はァわしも久しう久賀へもいんで見んが、久賀もずいぶん変んさっつろのう」
 郷里の言葉を丸出しで話し出した翁には、初めから他人行儀はなかった。
 
173 どうしてここへ来たちうか。それはな、久賀の大釣にはメシモライというて――まァ五つ六つ位のみなし子を船にのせるならわしがあって、わしもそのメシモライになって大釣へのせられたのじゃ。
(略)
生まれてはじめてメシモライで乗った船がいきなり対馬へ行くんじゃから、子供心にたまげたのう。
 
184 潮がひいて海の浅うなったとき、石のそばへ船を二はいつける。船と船との間へ丸太をわたして元気のええものが、藤蔓(つる)でつくった大けな縄を持ってもぐって石へかける。そしてその縄を船にわたした丸太にくくる。潮がみちてくると船が浮いてくるから、石もひとりでに海の中へ宙に浮きやしょう。そうすると船を沖へ漕ぎ出して石を深いところへおとす。船が二はいで一潮に石が一つしか運べん。しかし根気ようやっていると、どうやら船のつくところくらいはできあがりやしてのう。みんなで喜うでおったら大時化(しけ)があって、また石があがって来て港はめちゃめちゃになった。
 こりゃ石の捨場がわるかったのじゃ、もっと沖の方へ捨てにゃァいかんということになって、今度はずーっと深いところまで持っていって捨てやした。
 そりゃもう一通りの苦心じゃァなかった。わしら子供じゃからみておるだけじゃったが、ようやるもんじゃと子供心に感心したもんよの。それがあんたァ、魚を釣りに出る合間の仕事じゃから……。
 
188 久賀と浅藻の間を行き来していたが、その頃久賀じゃァハワイへいくことがはやっての・・・・・・。久賀で働きゃァ一日が十三銭にしかならんが、ハワイなら五十銭になる、何とええもうけじゃないかちうてみなどんどん出ていった。しかしわしらは漁師で、もう一生魚をとって暮らそうと決心していたから気は変らだった。
 
 魚もよう釣れたもんじゃ。まァ一日にタイの二、三十貫(1貫は3.75㎏、30貫は112.5㎏)も釣って見なされ、指も腕も痛うなるけえ。それがまた大けな奴ばっかりじゃけえのう。ありゃァ、かかったぞォ、と思うて引こうとするとあがって来やァせん。岩へでもひっかけたのかと思うと糸をひいていく。それを、あしらいまわして機嫌をとって船ばたまで引きあげるなァ、容易なことじゃァごいせん。きらわれた女子をくどくようなもので、あの手この手で、のばしたりちぢめたり、下手をしたら糸をきるけえのう。そのかわり引きあげたときのうれしさちうたら――、あったもんじゃァない。そねえなタイを一日に十枚も釣って見なされ、たいがいにゃァええ気持になる。晩にゃ一杯飲まにゃならんちう気にもなりまさい。そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。
 
192 やっぱり世の中で一ばんえらいのが人間のようでごいす。わしはその頃はもう嫁をもろうて、この土地の土になる気になって、漁師だけでは食えんから、子供の時なろうた菓子のつくり方を家内におしえて、わしは沖へ出る、家内は家で菓子をつくって商いをする、とまァそないにしてつつましう暮らしをたてて来やしたがのう。
 はァ、おもしろいこともかなしいこともえっとありましたわい。しかし能も何もない人間じゃけに、おもしろいということも漁のおもしろみぐらいのもの、かなしみというても、家内に不幸のあったとき位で、まァばァさんと五十年も一緒にくらせたのは何よりのしあわせでごいした。
 だいぶはなしましたのう。一ぷくしましょうかい。
 
 
私の祖父
 「私の祖父」では、著者の祖父である宮本市五郎について書かれています。弘化3年(1846年)山口県大島に生まれ、昭和2年(1927年)にそこで死にました。中農の次男に生まれましたが、兄が早くから大工として外に出たため、家で百姓をしたそうです。著者は述べます。
 
198 仕事をおえると神様、仏様を拝んでねた。とにかくよくつづくものだと思われるほど働いたのである。しかしそういう生活に不平も持たず疑問も持たず、1日1日を無事にすごされることを感謝していた。市五郎のたのしみは仕事をしているときに歌をうたうことであった。歌はその祖父にあたる人から幼少の折おしえこまれたのがもとになっているらしい。田植、草刈、草とり、臼ひきなどの労働歌をはじめ、盆踊歌やハンヤ節、ションガエ節のようなものをも実によくおぼえていた。祖父にあたる人は長男であったのが伯父の家へ養子に来た。気らくな人で、生涯めとらず、すきな歌をうたいのんきに仕事をして一生をおわったらしい。田植時期になると太鼓1つをもって方々の田へ田植歌をうたいにいった。盆になれば踊場へ音頭をとりにいった。旅人はまた誰でもとめた。子がいないから弟の長男を養子にもらった。それが善兵衛である。善兵衛は働きものだが旅人の宿はつづけた。宿といってもお金一文もらうわけではない。家族のものと同じものをたべ、あくる日には一言お礼を言って出ていくのである。
 
201 私がまだ五、六歳ごろののことであったと思う。山奥の田のほとりの小さい井戸に亀の子が一ぴききいた。私は山にいく度にのぞきこんでこの亀を見るのがたのしみだった。ところが、こんなにせまいところにいつまでもとじこめられているのはかわいそうだと思って祖父にいって井戸からあげてもらい、縄にくくって家へもってかえる事にした。家で飼うつもりであった。喜びいさんで一人でかえりかけたが、歩いているうちにだんだん亀が気の毒になった。見しらぬところへつれていったらどんなにさびしいだろうと思ったのである。そして亀をさげたまま大声でなき出した。通りあわせた女にきかれても、「亀がかわいそうだ」とだけしかいえなかった。そしてまた山の田の方へないて歩いていった。女の人がついて来てくれた。田のほとりまで来ると祖父は私をいたわって亀をまたもとの井戸にかえしてくれた。「亀には亀の世間があるのだから、やっぱりここにおくのがよかろう」といったのをいまでもおぼえている。この亀は私が小学校を出るころまで井戸の中にいた。そしてかなりの大きさになった。ある日となりの田の年寄りが、「亀も大分大きくなったで、この中では世間がせまかろう」といって井戸から出してすぐそばの谷川へ入れた。それからのち私が三十をすぎるころまで、夕方山道をもどって来るとこの亀が道をのそのそと歩いているのを見かけることがあったが、祖父はまた山道でこの亀を見かけると、そのことをかならずはなしてくれたものである。
 
203 「どこにおっても、何をしておっても、自分がわるい事をしておらねば、みんなたすけてくれるもんじゃ。日ぐれに一人で山道をもどって来ると、たいてい山の神さまがまもってついて来てくれるものじゃ。ホイッホイッというような声をたててな。」小さい時からきかされた祖父のこの言葉はそのまま信じられて、その後どんな夜更の山道をあるいても苦にならなかったのである。
 
209 世間のつきあい、あるいは世間態というようなものもあったが、はたで見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。世間態をやかましくいったり、家格をやかましくいうのは、われわれの家よりももう一まわり上にいる、村の支配層の中に見られるようにみえる。このことは決して私の郷里のみの現象ではないように思う。会津盆地の片田舎の貧農の家に育った蓮沼門三の自伝をよんでみて、家族内での人々の生き方をみると、われわれの家とほとんどかわっていない。こうした貧農の家の日常茶飯事についてかかれた書物というものはほとんどなくて、やっと近頃になって「物いわぬ農民」や「民話を生む人々」のような書物がではじめたにすぎないが、いままで農村について書かれたものは、上層部の現象や下層の中の特異例に関するものが多かった。そして読む方の側は初めから矛盾や悲痛感がでていないと承知しなかったものである。
 
210 さて祖父と祖母は50年つれそって、喜の字の祝と金婚の祝を子供たちからしてもらって、貧乏はしても自分の歩いて来た道に満足したのであるが、その年の3月のある宵、祖母は前の家へもらい風呂にいって、そこでしばらくはなし、家へかえって隠居部屋へはいろうと縁へ手をついたまま、脳出血で死んだ。祖父がねようと思って、便所へ行くために縁へ出ると祖母がうつぶしている。声をかけても返事がない。ゆすぶっても動かない。そこで母をよんだ。母がいって見ると、もうこときれていた。嫁に手をやかせず、自分もくるしまずに死んだのだからこれほどしあわせはないといって村人からは徳人といってうらやましがられた。
 
213 祖父が死んだあくる日、近所の老人が祖父名義の貯金通帳をもって来た。それは自分の葬式の費用にするためのものであった。この通帳をあずかっていた老人は、その昔私の家をやいた少年であった。青年のころにはすこし気が変になっていたのを祖父はよくめんどうを見てやった。青年はそれから四国巡礼に出て長い間かえらなかった。もどってくるとすっかり元気になっていた。そして小商売をはじめた。正直で親切で貧乏人にはよい味方であった。祖父にとっては自分の家へ不幸をもたらした人だったけれど信頼してずっと年下なのにかかわらず何事も相談していたようである。
 
 
世間師(一)
世間師(二)
214 日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時代に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。
 
243 お伊勢のお札がふって、ええじゃないかとさわいだのもそのころであった。明治元年五箇条の御誓文の「各その志をとげ、人心をして倦まざらしめん事を要す」というのをとりまちがえて、方々のカカヌスミにいったのも、それから間もない頃であった。
 それまで、このあたりには一年に一度だけすきなことをしてよい日があった。同じ南河内郡磯城村の上の太子の会式である。上の太子というのは聖徳太子の御廟のある所である。ここに旧二月二十二日に会式があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近辺の人は太子の一夜ぼぼと言ってずいぶんたくさんの人が出かけた。
 寺のまえに高い灯籠をたて、参拝した人たちは堂のまえにつどうて、音頭をとり石づきみたいなことをした。
 「出せ出せや酒を、酒を出さねばヨーホーホーイ」
 というような音頭であった。そのぞめきの中で男は女の肩へ手をかける。女は男の手をにぎる。すきと思うものに手をかけて、相手がふりはなさねばそれで約束はできたことになる。女の子はみんなきれいに着かざっていた。そうして男と手をとると、そのあたりの山の中へはいって、そこでねた。これはよい子だねをもらうためだといわれていて、その夜一夜にかぎられたことであった。ずっと昔は良家の娘も多かったが、後には柄のわるい女も多くきた。この時はらんだ子は父なしごでも大事に育てたものである。
 翁も十五になったとき、この一夜ぼぼへいって初めて女とねた。それから後もずうっとこの日は出かけていったが、明治の終頃には止んでしまった。
 ところが明治元年には、それがいつでも誰とでもねてよいというので、昼間でも家の中でも山の中でもすきな女とねることがはやった。それまで、結婚していない男女なら、よばいにいくことはあったが、亭主のある女とねることはなかった。そういう制限もなくなった。みなええ世の中じゃといってあそんでいたら、今度はそういうことをしてはならんと、警察がやかましく言うようになった。
 
259 明治から大正、昭和の前半にいたる間、どの村にもこのような世間師は少なからずいた。それが、村をあたらしくしていくためのささやかな方向づけをしたことはみのがせない。いずれも自ら進んでそういう役を買って出る。政府や学校が指導したものではなかった。
 しかしこうした人びとの存在によって村がおくればせながらもようやく世の動きについて行けたとも言える。そういうことからすれば過去の村々におけるこうした世間師の姿はもうすこし掘り起こされてもいいように思う。
 
 
文字をもつ伝承者(一)
文字をもつ伝承者(二)
 
 
 
あとがき
304 ここに収められたもろもろの文章の大半は雑誌『民話』の第3号から隔月に1回ずつ10回にわたって「年寄たち」と題して連載したものである。対馬にて、村の寄りあい、女の世間、土佐源氏、梶田富五郎翁、私の祖父、世間師(一)(二)、文字を持つ伝承者(一)(二)がこれである。年寄りを中心にして古い伝承のなされ方について書いた。枚数がかぎられていたためにあるものは引きのばし、あるものはちぢめている。それも編集者の寺門正行君から電話でせきたてられたり、汽車の中で書いたりしたものが多かったので、今回すこしずつ増補添削をして、全体としても一冊にととのえられるようにした。
 
308 私の方法はまず目的の村へいくと、その村を一通りまわって、どういう村であるかを見る。つぎに役場へいって倉庫の中をさがして明治以来の資料をしらべる。つぎにそれをもとにして役場の人たちから疑問の点をたしかめる。同様に森林組合や農協をたずねていってしらべる。その間に古文書のあることがわかれば、旧家をたずねて必要なものを書きうつす。一方何戸かの農家を選定して個別調査をする。私の場合は大てい1軒に半日かける。午前・午後・夜と1日に3軒すませば上乗の方。仲間にたのむと、その人たちはもっと能率をあげる。
 古文書の疑問、役場資料の中の疑問などを心の中において、次には村の古老にあう。はじめはそういう疑問をなげかけるが、あとはできるだけ自由にはなしてもらう。そこでは相手が何を問題にしているかがよくわかって来る。と同時に実にいろいろな事をおしえられる。『名倉談義』はそうした機会での聞取である。
 その間に主婦たちや若い者の仲間にあう機会をつくって、この方は多人数の座談会の形式ではなしもきき、こちらもはなすことにしている。
 それらの中からみちびき出してき来た問題はいくつもある。がわたしの一ばん知りたいことは今日の文化をきずきあげて来た生産者のエネルギーというものが、どういう人間関係や環境の中から生まれ出て来たかということである。
 
 
 
注(田村善次郎)
解説(網野善彦
327 「対馬にて」をはじめ「村の寄りあい」「名倉談義」などで、宮本氏は西日本の村の特質をさまざまな面から語っている。帳箱を大切に伝え、「講堂」や「辻」のような寄合の場を持ち、年齢階梯制によって組織される西日本の村の特質が、これらの文章を通じて、きわめて具体的に浮彫にされてくる。それは昔話の伝承のあり方にまで及んでおり、「村の寄りあい」には、西日本では村全体に関することが多く伝承されるのに対し、東日本では家によってそれが伝承されるという注目すべき指摘が見られる。しかし東日本の実体については「文字を持つ伝承者」(二)で磐城の太鼓田を中国地方の大田植と比較し、後者が村中心であるのに、前者がが大経営者中心であったとする程度にとどまり、内容的にはほとんどふれられていない。
 戦後、寄生地主制や家父長制が「封建的」として批判されたことが、農村のイメージをそれ一色にぬりつぶす傾向のあった点に対し、西日本に生れた宮本氏は強く批判的であり、それを東日本の特徴とみていた。この書にもそうした誤りを正そうとする意図がこめられていたことは明らかで、それは十分成功したといってよい。ただ逆に現在からみると、ここで語られた村のあり方が著しく西日本に片寄る結果になっている点も、見逃してはならぬであろう。
 女性の独自な世界がリアルに語られているのも同じ背景を持っているといってよい。「村の寄りあい」の「世話焼きばっば」、老女たちだけの「泣きごとの講」、自らつくった「おば捨山的な世界」や「女だけの寄り合い」、また「女の世間」に描かれた共同体の大きな紐帯をなしていた女性の役割、とくに女性たちの世間話の中から笑話の生れてくる過程など、まことに興味深い話が数多く紹介されているのは、家父長制一本槍の農村理解に対する宮本氏の批判的角度の意識的な強調であろう
 就中注目すべきは、宮本氏が女性たちのまことに解放的な「エロばなし」をはじめ、ある種の性の「解放」について、各所で触れている点である。「対馬にて」の観音堂での歌垣や「男女共に誰と寝てもよかった」という「世間師」(二)の南河内郡磯城村の太子廟の会式は、特別な場でのそれであるが、この話の主役左近熊太翁が「女はねるのが風流の一つ」といい、畿内の「気品のある女には恋歌を書いてわたすと大ていは言うことをきいてくれた」と話していること、「土佐源氏」の主人公の博労に応じた何人もの女性の話などを通して、宮本氏は男女の関係について、通常の「常識」と異なるあり方が庶民の世界に生きていることを語ろうとしているかにみえる。
 

読んだ。 #カント #純粋理性批判 理性が孕む危うさ #西研 #100分de名著

読んだ。 #カント #純粋理性批判 理性が孕む危うさ #西研 #100分de名著
 
18世紀の哲学者イマヌエル・カント(1724 - 1804)
 
・批判哲学
 
純粋理性批判→人間がもつ理性の限界を確定し、「人間は何を知りうるか」を解き明かしたもの。
哲学史上、最も難解な名著の一つといわれるこの著作。
 
純粋理性批判」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、近代科学の最初の波が勃興。科学を使えば世界の全てを説明することが可能だとする啓蒙の時代を迎えていた。そんな中で、西欧人たちは二つの大きな難問に突き当たった。
 
①科学は本当に客観的な根拠をもっているのか
②科学で世界の全てが説明できるとすると、人間の価値や自由、道徳などの居場所はあるのか
 
理性の能力を精密に分析。
人間が知りうるものの範囲をどう確定するか
人間が知りえないものについてどんな態度をもつべきか
といった根本的な問題を明らかにすることで、難問に回答を与えようとしたのが「純粋理性批判」。
 
認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う
理性は自らの力を過信して誤謬に陥る
従来の哲学の常識を覆す革命的な視点が盛り込まれている。
「人間が考えることの意味」をあらためて深く見つめなおすヒントを与えてくれる。
 
4 カント以後、神の存在証明を試みる哲学者がほとんどいなくなった
 
5 「そもそも人間は何を、どのように認識しているのか。そのとき理性はどのように働くのか」→認識論
人間の認識の基本構造を明らかにする事によって、きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲はどこまでで、ここからはそれを逸脱するので共有できる答えは出ない、ということを示そうとした
 
 「合理的な答えの出る領域と、そういう答えがもともと出ない領域とがある」
 
6 純粋理性批判の課題
①科学が合理的な根拠をもって共有できる根拠
②なぜ人間の理性は究極真理を求めて底なし沼にはまってしまうのか
③よく生きるとはどういうことか(道徳の根拠)
 
 
 
 
第1回 近代哲学の二大難問
十年の沈黙を破って出版された大著
カントが生きた近代ヨーロッパ
 
 近代科学が勃興し始めた18世紀ヨーロッパ。近代人たちが直面した二つの大きな難問
①「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」
②「科学で世界の全てが説明できるとすると人間の価値や道徳などの居場所はあるのか」
 
 その根源的な課題に向き合うために、「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出す。
 
 認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとする。
その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」(叡智界)と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付ける
 これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、難問の解決を試みる。
 
 
16 哲学とは「合理的な共通理解をつくるための対話の営み
 
近代哲学が直面した二大難問
18 もし人間に自由がないとすれば、生き方や人生についてあれこれ考えたり、悩んだりするのは無駄になりそうです。すべては「決まって」いるのですから・・・・・・。こうして、私たちの心が物の世界と同じ法則性のなかにあるとしたら、人間に自由意志は存在しないことになります。
 そこで、心の世界は物の世界から隔絶して存在すると考えると、心の自由を確保することができます。この立場は物心二元論(物と心は全く別物で隔絶している)と呼ばれますが、「近代哲学の父」と称されるルネ・デカルトが代表的です。しかし、そう考えると、心の世界と物の世界はまったく隔絶してしまうので、互いに影響を与える(相互作用する)こともできなくなる。すると、私たちの心はどうやって肉体(一種の「物」)に働きかけて自分の手足を操作できるのか、という「謎」が生まれてしまう。
 
主観と客観は一致できるか
21 人間の知の客観性をどう理解したらよいか
 
 デカルトが持ち出したのは、「神の存在」。人間は主観の外に出ることはできないけれど、善意ある神は、客観的に認識する能力を人間に授けてくれており、人間が熟考して明らかなこと(主観)は客観とほぼ一致するというのです。今と時代が違うとはいえ、この議論はかなり苦しいですね。
 
 科学にそれなりの客観性があり信頼性がある、ということを疑う人はいない。では、その客観性なり信頼性なりは、どこにその根拠をもっているのか。そもそも知の客観性というものをどう理解すればいいのか。また、道徳や美のような領域についても、それなりの客観的な(共有できる)知をつくりだすことはできるのか。この問題についても、現代にいたるまで哲学の世界で完全に共有されて「定説」になった答えはない。
 私自身は、カントの答えはかなりいい線をいっていて、これを受け継いで発展させたエトムント・フッサールの答えは決定的なものだと考える
 
カントを震撼させたヒュームの警告
22 イギリス経験論(人間のすべての認識は経験によって形成されると考え、人間は自らの主観の外には出られない)-ロック、ヒューム
  大陸合理論(人間は経験に寄らずとも、知性によって理詰めで物事を突き詰めることで、合理的に客観世界の秩序を認識できる)-デカルトスピノザライプニッツ
 
24 ヒューム
・神も科学も思い込みにすぎない
・イギリス経験論=人間の中に浮かぶ知識や観念は、すべて経験から来たものにすぎない
     私という存在は様々な知覚の集まりにすぎない
・火は熱い
     火→熱いという因果関係が本当にあるのか
     妖精が熱さを与えているだけor未知の物理現象X
・ある状態Aになったとき、ある状態Bが起きる、という経験を繰り返しているうちにそういう法則が必ず起きると思い込んだだけの可能性がある
 
カントは何を「批判」したのか
27 ここでいう「批判」は、必ずしも否定や非難のニュアンスを含んでいるわけではありません。理性の能力とその限界を厳しく吟味することを指す言葉です。この本でカントは、人間が備える「純粋理性」のできること・できないことを吟味して明確にしようとしたわけです。
 詳しくは追って説明しますが、カントの言う「理性」とは、広義では、感覚を含む人間の認識能力一般を指します狭義では。特に物事を推理する能力を指します
 この狭義の理性は、さまざまな認識や判断をもとにその原因や前提条件を問うていきます。たとえば、引っ越してきたとき、自分の家の東のほうに歩いていくと、どんな風景が広がっているんだろう、住宅地が続くのかな、それとも畑が広がっているんだろうか、と推理する。この場合には、いくつかの情報に従ってそれなりに妥当な推理が出来そうですし、実際に行って確かめることもできるでしょう。そのように理性を使っている限り、問題はない。
 しかし理性には、どんどん推理を進めていく本性があります。地球の外はどうなっている?太陽系の外は?銀河系の外は?と次々に問うていくと、ついには、宇宙空間には果て(限界)があるのか?ということまで考えてしまう。理性は、科学が行っているように合理的な推理も行いますが、どんどん推理を積み重ねて「究極真理」を問うてしまう、そんな本性も持っているのです。
 わたしたちは、「理性」という言葉に合理性や正確さをイメージしますが、カントは、人間の理性はしばしば暴走して「究極真理」を求め、答えの出ない問いにはまり込んでしまう、と考えます。~ここでは『純粋理性批判』という書名には、理性を正しく使用するために理性の能力を吟味する、という狙いが込められていることだけ押さえておいてください。ちなみに「純粋理性」の「純粋」とは、経験から得た知識を含んでいない、という意味です
 
28 主観の共通規格は存在する
①主観が主観の外に出て客観世界そのもの(物自体)に一致することはできない、ということを積極的に認める
②どの主観も一定の共通規格(共通のメガネ)をもっているので、自然認識の基本的な部分(因果律、質量保存の法則など)については共通認識=客観的認識が成り立つ。
 
認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとする。
その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付ける。「叡知界」
 
感性と悟性の働き
カントによる認識の三段階
段階
能力
方法と内容
認識の経験的な部分
認識の純粋な部分
感性
受容性。心が触発されたときに像をうけとる能力。
直観
感覚的な対象によって触発される方法、又はその内容。
感覚を含む認識の素材
感覚が混在しない、直観するための形式。
〈時間・空間〉
悟性
知性。直観した対象を思考し、現象として捉える能力。
概念(経験概念、純粋概念)
心に思い描いた像から対象を認識する方法、又はその内容。
思考の素材
対象を思考するための形式。
〈カテゴリー〉量、質、関係、様態
理性
概念と概念を関連づけて推論し、仮象として捉える能力。
 
 
理念・憶測?
概念どうしを関連づけて推論し、世界を認識する方法、又はその内容。経験を越えて世界を探ることもでき、二律背反(アンチノミー)に陥ってしまうこともある。
概念や直観など、推論の素材
現象を関連づけて統合するための形式。
〈理論・法則〉
 
①.認識の第一段階=「感性
感覚器官を通じて受け取った多様な感覚を、「時間」と「空間」という二つの枠組みの中で整理している。
「時間」と「空間」という感性の形式を抜きにして、事物をとらえることはできない。
 
ここで重要なのは、空間と時間は現実世界(物自体)の側にあるのではなく、私たちの感性が空間と時間という枠組みを備えているということ。
カント認識論によれば、私たちは客観世界を直接捉えることはできない。
あくまでも、私たちが備える感性の働きによって、多様な感覚を空間・時間という枠組みの中で位置づける。
こうして位置づけられた感覚を、カントは「直観」と呼ぶ。
 
②.認識の第二段階=「悟性」
この茫漠たる感覚の束を整理・統合して「判断」をもたらすのが悟性の働き。
感性に空間・時間という形式があったように、悟性にも判断のさいのさまざまな形式が備わっている。→〈カテゴリー〉量、質、関係、様態
 
ア・プリオリー先天的、あらかじめ、そもそも
感性や悟性の形式は、私たちにア・プリオリに備わったもの
 
普通は、客観がまずあってそれを主観が写し取る(客観→主観)と考えるが、カントは逆に、主観のア・プリオリな枠組みが現象としての客観をつくりだす(主観→客観)と考える。
 
39 近代哲学が直面した難問の一つに「主客一致の問題」があると述べたが、カントはこの問題を、主観と客観を一致させるのではなく、主観同士を一致させるという形で解決した。
 
 
 
第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか
 
多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容する「感性」
「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている(ア・プリオリ「形式」だとカントは考える。
いわば、私たちは「時間」「空間」というメガネをかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつというのだ。
しかし、それだけでは認識は成立しない。
もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つという。
第二回は、認識能力の限界を見極めるカントの洞察を通して、「人間が何を知りえて、何を知りえないか」を明らかにし、科学的知識がなぜ共有できるのかを掘り下げて考える。
 
42 ヒュームが言うように、人間が捉えた現実は客観的世界そのものではない、ということをカントも認めています。
カントは、私たち人間は「物自体」を認識できないとして、それを主観が捉えている世界(現象界)と峻別しました。
 
 数学や自然科学の知を、誰もが信頼して共有できる客観的な知として基礎づけたい――『純粋理性批判』はそんな思いから書かれた。
 すべての人間は、主観に共通のメガネ(認識の共通規格)を備えているため、数学や自然科学の基本的な部分については、認識を共有できると主張する。
 
44 経験概念-茶色い、大きい、テーブル。様々な感覚をひとつの共通のものにまとめる働きをする。いろんな茶色を「同じ茶色」としてまとめるのが概念。実質的には「言葉」と読み替えてもよい。ア・ポステリオリ(後天的)。
 ア・ポステリオリな経験概念しか持たないのならば、ヒュームの議論になる。科学の知は万人には共通できないことになる。
 
46 純粋概念-
4種12個のカテゴリー
(悟性の論理的な概念・純粋知性概念)直観に与えられた多様な素材を悟性による判断の論理的な機能に照らして規定される。
この時の機能がカテゴリーである。
①量
単一性(ひとつ)
数多性(いくつか)
全体性(すべて)
「ひとつ」や「すべて」という言葉それ自体は後天的に学習するものにせよ、「これひとつ」「ここにあるものすべて」という概念そのものは、個々人の経験に拠ることなく、誰もが認識できるものだとカントは考えた。
 
②質
実在性(である・がある)
否定性(~でない・~がない)
制限性(~ではないものとしてある)「これは・・・・・・ではないなにかだ」「これは茶碗ではない」「平皿でもない」「コップとも違う」と絞り込んで範囲を定めていく、という思考の型。
 
③関係(二つの事柄の間に何らかの必然的なつながりを見出す思考の型。二つの事柄がたまたまつながっているのではない、ということ)
実体と属性(「食塩」という物質に対して、「白い」「辛い」という性質を結びつけて「塩は白くて辛い」という「判断」をしている。そのとき、食塩にはこれらの性質が必ず所属していると考えるのであって、たまたまとは考えていないはず。このように、ある種の対象に必然的に属する性質を考える思考の型)
原因と結果(因果性と依存性)(「野菜を加熱した」と「野菜が柔らかくなった」、あるいは「たっぷり寝た」と「元気になった」を、原因と結果の関係で認識している。ヒュームはこれを、二つの事柄が常に相伴って生じる(相乗的隣接がある)だけなのに、そこに人間は習慣として必然性を読み込んでいるのだ、と言います。しかしカントは、「ある原因が必ず一定の結果をもたらす」という思考は単なる週間ではないく、人間の悟性にア・プリオリに備わったものであるという。)
相互性(能動的なものと受動的なものの相互作用)二つの事柄が互いに作用しあうということを見て取る思考の型。
 
 
④様態(ある命題についてその確からしさの程度を判定すること)
可能と不可能(ありえる・ありえない)
現実存在と非存在(実際に成り立っている・成り立っていない)
必然性と偶然性(必然的に成り立つ・偶然にすぎない)
 
 
51 「ア・プリオリな総合判断」とは何か
 私たちは日常生活の中で「〇〇は・・・・・だ」という判断を頻繁にしており、「分析判断」「総合判断」に大別することができる。
 ここでいう「分析」とは「取り出す」という意味。
分析判断とは、主語の中に含まれているものを述語として取り出す判断のことを指す。
「富士山は山である」「日本人は人間である」
分析判断は必ず成り立つが、新たな情報が付加されることはない。
 
 総合判断は、主語に新たな情報を付加する
「富士山は標高3776メートルである」「日本人は勤勉である」
これらの判断は、私たちの経験や調査を経て初めて形成されるもの。
 
イギリス経験論の立場では、すべての総合判断は経験に基づいて形成されると主張する。ヒュームがその典型。
しかしカントは、経験に基づくものではない総合判断もあると考えた。
主語に新たな情報を付加しているのに(分析判断ではないのに)、その情報は経験や調査に基づくものではない、そういう種類の判断がある。
カントはこれを「ア・プリオリな総合判断」と呼んだ。
 
52 純粋な悟性の原則
「3+2は5である」のような数学(算術)の判断。
「3に2を加えること」というのが主語ですが、これは「5」を含んでいないので、分析判断には該当しない。→総合判断
だから、新たな情報が付加された総合判断でありながら、計測や調査のような経験を必要としない「ア・プリオリな総合判断」であるというのがカントの言い分。
ヒュームはこれを分析判断だと考えた。つまり「3+2」という主語の中におのずと5は含まれており、だからこそ常に正しい。
「3に2を加える」というのは作業の指示にすぎない。これに従って作業することではじめて5が出てくる。
「富士山は山である」のように、主語に述語がおのずと含まれているケースとは違う。
 しかし、この作業を行うと、いつ・だれが・どこで行ってもつねに同じ結果が出る。
 
 ほかにも、自然科学の基礎(土台)にいくつかのア・プリオリな総合判断があるとカントは考える。
あらゆる変化には必ずその原因がある」という因果律。偶然に何かが起こることはない、ということを含んでいる。
「あらゆる変化」という主語のなかには「必ずその原因がある」という術語は含まれていない。→総合判断
 
55 ア・プリオリな総合判断」の原則(純粋な悟性の原則)
1,直観の公理:外延の原則。直観された対象は、すべて外延量をもつ。
たとえば、1本の直線にはある一点から空間的な広がりをもつ。
 
2,知覚の先取:感覚の対象をなす実在的な対象は、必ず一定の感覚の度合い(強い弱い)をもつ。
たとえば、色や音や光の強度は連続的なグラデーションをなす。
 
3,経験の類推:ひとつの経験的認識が成立するには、個々の知覚が「必然的な関係」として結びついているという表象が伴わなくてはならない。
こうした必然的結合には、以下の種類がある。
第一類推:実体持続の原則
現象はどれほど変化しようとも実体は持続しつづけ、自然に含まれる実体の量そのものは増加も減少もしない。
たとえば、密閉したフラスコの水(液体)を熱して蒸気(気体)に変化させても、全体の重さは変化しない。
ラヴォアジエ「質量保存の法則」を受けたもの。
  第二類推:因果律の原則
あらゆる変化は、原因と結果を結びつける法則にしたがって生じる。
あらゆる変化には、その原因がある。例えば、机から皿が落ちる(原因)ことによって、皿が割れる(結果)という事象が起こる。
  第三類推:相互性の原則
全ての実体は、空間において同時に存在するものとして知覚できる限り、完全な相互作用のうちにある。たとえば、私たちが花瓶」に行けられた花を見るとき、花瓶と花が同時かつ別々に存在し、相互に作用している様を認識する。「万有引力の法則」を受けたもの。
 
4,経験的思考一般の要請様相の原則。対象世界について、ある判断が現実的な存在と言い得るための条件(原則)には以下の種類がある。
    1、可能的:1~3の原則に矛盾しないことは、たとえ知覚できなくても起こりうる(存在する)可能性がある。
一致しないこと、例えば外延量をもたない物体は存在しない。
    2、現実的:実際に感覚的に知覚されることは、現に起こっている(確かにある)。
たとえば、磁石に吸い寄せられる鉄粉の動きを見て磁力の存在を推論するように、直接知覚されなくても、合理的な推論として「確かに存在する」とされる場合がある。 
    3、必然的:ある事態がそうなっていることの必然的な理由が理解されているものは、必然的にそうなっている。
経験の普遍的条件に従って、現実的なものと連関しているものは必然的である(存在する)
 
 これらの原則がどうやって成り立つかを示すことが、数学と科学の基礎付けとなる。
感性に備わるア・プリオリな形式である空間・時間(直観)と、悟性が備えるア・プリオリな概念(カテゴリー)とを結び合わせることによって、カントはこれらの原則を導出していく。つまり、共通規格として設定された二つの層を結びつけることで、どんな人にも共通な「認知のさいに働く原則」を導き出す。
 
56 「数」の概念の成り立ち
 まず、量のカテゴリーだけでは数の概念は生じない、とカントは考える。量という思考のカテゴリーに、空間と時間の直観が結びつくことによって、数が生まれる。
 ホワイトボードのような平面を想像する。そこに直径3cmメートルくらいの黒丸を描く。これを単一性のカテゴリーに基づいて「黒丸が1つある」と判断する。
次に、もう1つ同じ大きさの黒丸を描く。先ほどの黒丸と同時に眺めて「黒丸が2つある」。
数多性(いくつか)のカテゴリー。
こうして、黒丸を継続的に加えていくと、1,2,3・・・・・・となって、数の概念が出てくることになる。カントの言い方では「同種のものの継続的な総合」によって数の概念は生まれる。
 こうして数の概念が生まれるためには、まず「空間」が必要であり、かつ、継続的に加えていくので、その都度の経験を「時間」的にまとめていく(総合する)ことが必要となる。
 文化の違いにかかわらず、「いつ・だれが・どこで」行ってもつねに同じ結果が出る。算術(計算)は「ア・プリオリな総合命題」として成り立つ。
 
58 すべての直観は外延量である=直観の公理
 空間・時間の中で直観されるあらゆる対象は、すべて大きさをもつ
外延量=長さ、面積、体積のような空間における大きさのこと=足したり分割したりできる。単位を決めればその数(いくつ分)でもって測ることができる。このように、足したり計測したりできる大きさのことを外延量という。
 
 人間が直観したものは空間的広がりをもっており、それは測定可能で、数と単位で表すことができる。これが「外延量の原則」。そういう能力が人間にア・プリオリに備わっているからこそ、数学の世界が成り立つとカントは考えた。
 数学の世界は何処かに客観的にあるのではなく、人間の認知能力である感性(直観)と悟性(カテゴリー)とが結びつくことによって可能になる
 
61 因果律の原則-「あらゆる変化は、原因と結果を結びつける法則にしたがって生じる」
あらゆる変化には、その原因がある。例えば、机から皿が落ちる(原因)ことによって、皿が割れる(結果)という事象が起こる。
 原因・結果のカテゴリーと時間の結びつきで生まれる因果律の原則は、主観の中にあるが、人間が経験する現象をあらかじめ形づくっている。その意味では客観的なものと言える。カントはこうして、人の経験するすべての現象は因果的な法則に従って生起する、とみなした。
 
66 純粋統覚(根源的統覚)
 感性と悟性を通じて与えられた様々な認識の素材をまとめ上げる「私は考える」という自己意識のこと。「根源的統覚」とも呼ばれる。
カントに先行するライプニッツは、知覚に伴って知覚の働き自体に気づく意識のあり方を「統覚」と呼んだ。
ライプニッツの統覚が経験的な働きであるのに対して、『純粋理性批判』では、感性や悟性の形式と同様、経験を可能にするア・プリオリな働きとして統覚を捉えている。
 
 認識したことや心に思い描いた事柄すべてを、「私が」したこととしてまとめている、ということ。
 たとえば、「友人と土曜日に会う約束をした」「土曜日に仕事がある」「最近ずっと体調がすぐれない」といったことが「私は」という主語を伴なわないばらばらな認識だったとしたら、約束をすっぽかして信用を失ってしまうかもしれない。~
 私たちが人生を振り返ることができるのも、純粋統覚によって、さまざまな体験を「私のもの」として時系列にまとめているから。
 そして、純粋統覚は、知覚や経験を「まとめる」力ですから、認識する働きの核であるといっても過言ではない。私たちは、花びらや茎といったパーツの印象を「まとめる」ことで、対象を花と認識している。
 また、二つの事象を「まとめる」ことで因果を見いだし、「〇〇によって・・・・・・が起こった」と判断している。ものを数えるという行為も、単位を「まとめる」ことに他ならない。~
 この統覚の働きがあるからこそ、「恒常的な自分がある」という自己の意識が生まれてくる。多様な認識をなしながらも、「同じ私がある」という意識を私たちは保っている。こうして、統覚の働きは、対象認識と自己認識の両方につながっていることが分かる
 
 
68 超越論的
 カントは、経験を可能にする条件を吟味することを「超越論的」と呼び、経験可能な領域の外部に超え出ていることを意味する「超越的」と区別した。
たとえば、神を認識できるかどうかは、超越的な認識の問題であって、超越論的ではない。
経験を可能にする感性や悟性、統覚の働きを吟味することが、カントの言う超越論的な哲学の探求である。
 
 心理学者のジャン・ピアジェ。「発達」を考慮に入れると、量や因果性のカテゴリーは、ア・プリオリなものではなく、次第に形成されていくものである、と考えるほうが自然。
 
70 カントには、どうしても認識を二層構造で考えなければならない理由があった
究極真理を語ろうとする従来の哲学を批判し、解決の道筋をつけるため
 空間・時間の枠組みの中で与えられる直観と結びついた認識は、正しい(客観的)認識でありえます。
間違うこともあるので「ありえる」としかいえませんが、実験や観察でもって検証することで、より正しい認識をつくっていくことができる。
これに対し、感性による直観と結びつかない思考、つまり概念のみを頼みとする思考は、客観性という立地をもちえない。
 空間と時間という枠組みでもって直観できない対象とは?→たとえば、神の存在や魂の不死、宇宙空間の限界など
これらを旧来の哲学は語ってきたが、これは「直観なき思考」の暴走であって、答えの出ない底なし沼、合理的に共有されえない独断論に陥ってしまう――カントはそのように指摘したかった。
 なので、直観と概念を完全に切り離したことはかなりの無理がある、と思うが、そこに「思考の暴走を説明するため」という正当な動機があったことも受け止める必要がある
 
 
 
第3回 宇宙は無限か、有限か
理性が本来の限界を超えて推論を続けると必ず陥ってしまう誤謬。
中でも「世界全体についての認識」を例にそうした誤謬の検証を行うカント。
例えば「宇宙は無限か、有限か」。
宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになる。
逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになるが、無限の時間とは経過し終えないもののはずだから現在という時間は決して訪れないことなる。
このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾アンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせる。
第三回は、理性が自ら陥ってしまう誤謬の解明を通して理性や科学的思考への過信に警告を鳴らす。
 
72
①究極真理の問いは、なぜ答えが出ないのか?
②なぜ人間は、答えの出ないといの底なし沼にはまるのか?
段階
能力
方法と内容
認識の経験的な部分
認識の純粋な部分
感性
受容性。心が触発されたときに像をうけとる能力。
直観
感覚的な対象によって触発される方法、又はその内容。
感覚を含む認識の素材
 
感覚が混在しない、直観するための形式。
〈時間・空間〉
悟性
知性。直観した対象を思考し、現象として捉える能力。
概念(判断
心に思い描いた像から対象を認識する方法、又はその内容。
思考の素材
対象を思考するための形式。
〈カテゴリー〉
理性
概念と概念を関連づけて推論し、仮象として捉える能力。
(理論理性、実践理性)
理念・憶測?
概念どうしを関連づけて推論し、世界を認識する方法、又はその内容。経験を越えて世界を探ることもでき、二律背反(アンチノミー)に陥ってしまうこともある。
概念や直観など、推論の素材
現象を関連づけて統合するための形式。
〈理論・法則〉
 
 たとえば、鉄粉に磁石を近づけたとする。
そこで起きた変化を「磁石が鉄粉を引き寄せた」と判断するのが悟性。「原因と結果」のカテゴリー、ひいては「因果律の原則」にもとづいてそう判断する。
さらに一歩進んで、私たちは「肉眼では捉えられないが、個々には何らかの力が働いているに違いない」と考え、「磁力」という一般的な原理を想定する。こうした「推論」をするのが理性の働き
 悟性と理性は「考える」という点では同じ。しかし、悟性が直観と結びついて働くのに対し、理性は必ずしも直観に縛られない。磁力の例は直観を説明するうえで合理的な推論と言えるが、理性は必ずしも合理的な推論を導くとは限らない。
 たとえば理性は、原因・結果のカテゴリーを使ってどんどん推論を進めていくかもしれない。「磁力にもそれを生み出す原因があるに違いない。それは何だろうか?〇〇に違いない! !だったら○○を生み出す原因は何だろうか?原因の原因の、そのまた原因は?」となり、ついに「世界の一切を生み出す究極原因は何か」という問いにたどり着く。
 理性は推論に推論を重ねた挙句、現象界から逸脱し、究極の真理にまで行きつこうとする本性をもっている、とカントは述べる。 答えの出ないことを求めて「暴走」しかねないのが理性。
 人間は、主観の外にある「物自体」を直接には認識できない。人間が認識しているのは、それぞれの主観(心)に映った世界。「現象界」。この現象界を形成しているのが、感性と悟性。感性と悟性には、すべての人に共通の認識規格(メガネ)がア・プリオリに備わっているので、他の人と合理的に共有可能な認識をつくることができる。
 
75 特にポイントとなるのは感性の形式である「空間・時間」。
空間・時間の中で経験される物事の次元(現象界)にとどまっている限りは、みんなが「そうだよね」と共有できる答えに至ることができる。
具体的な観察や記録に基づいて合理的な推論をすることができるからです。
しかし暴走した理性は、この共有可能な現象界を飛び出し、際限なく推論を進めて「答えの出ない問」をつくりだしてしまう。
そして、合理的に共有可能な根拠を示すことができない「独断論」になってしまう
 
 カントは「純粋理性」を徹底的に「批判」する(理性の認識能力を吟味する)ことによって、これらの問いじたいを不可能なものとして葬り去ろうとした
 
 
76 カントの認識論によれば、私たちが合理的に認識しうる対象は、人間の感性が「空間」と「時間」の枠組みで捉えらるものだけ。自分の内的な感覚によってとらえられる限りで「心」について認識することはできる。「今は私はお腹が痛い」「あの人の前に出ると胸がドキドキする」ということ(内的感覚によってとらえられた自分)はきちんと認識できるし、それを材料として人間の心についての学問をつくることも可能。
 しかし、具合的な心の働きの根底に究極の大本として「魂」を想定し、それは肉体が滅びても壊れることはない、つまり不死なのだ、と語ることは、時空から超え出たものを認識しようとしている時点で、そもそも間違った推論。
 ここで気をつけていただきたいのですが、カントは「不死なる魂は存在しない」と主張しているのではない。心の働きの大本にあるかもしれない魂は原理的に認識できないから、「ある」とも「ない」ともいえない。そういう意味で、いくら議論しても答えは出ない、というのがカントの結論。
 
 どこかに「ほんとうの私」を求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていくしか答えはない、と。このことを示唆してくれたのは、カントより一世紀ほどの哲学者フリードリヒ・ニーチェ
 
79 答えの出ない問として、4つのアンチノミー」(二律背反)対立する二つの命題がどちらも証明できてしまい、どちらが正しいのか決着がつかない状態
 
①宇宙は無限か、有限か
 時間的に無限かゆ喧嘩という問題(宇宙に始まりはあるか否か)
 空間的に無限か有限化かいう問題(宇宙には果てがあるか否か)
 
 正命題 (有限説)「世界(宇宙)は時間的始まりをもち、空間的に見ても限界によって囲まれている」
 反命題(無限説)「世界(宇宙)は始まりをもたず、空間におけるいかなる限界も持たない。時間的にも空間的にも無限である」
 
・時間―宇宙に「始まりがある」とすると、その始まり以前はどうなっていたのかという疑問が生じる。そこには空間も時間もなかったはずだが、なにもないところに何かが生じるのはおかしい
 宇宙はビッグバンとともに始まった、と言われる。しかし、ビッグバンが起きる前はどういう状態だったのか。「いや、ビッグバンによって空間と時間がはじまったのであって、それ以前の時間などは存在しないのだ」といわれるかもしれない。しかし、時間のないところに時間が突然始まったとすれば、ビッグバンを可能にした何かがあったはずだと考える。そうすると、有限説が主張する始まりは、決して、すべてがはじまるという意味での真の始まりとは呼べない。こうして、有限説は否定されてしまう。
 宇宙に「始まりがない」とすると、現在までに無限の時間が過ぎ去ったことになる。しかし、「無限」が「過ぎ去って」しまう、ということは矛盾である。無限に現在という限界点があるのはおかしい
 言い方を変えると、スタート地点のない時間の流れをどうやって現在までに積み上げてきたのか、それは不可能ではないか、という議論。
 レンガ積みをイメージする。起点となる一個のレンガが据えられると、その上にどんどん積み上げていくことができる。しかし、最初の一個を積めないような場所(例えば底なし沼などに)、レンガを積み上げることはできない。同様に、はじまりのないところからいくら時を刻んでも現在に至ることは不可能。こうして「始まりがなければ現在が成立しない」といことになり、「始まりはある」と考えなくてはならない。
 空間についても同様に、もし宇宙空間が有限だとすれば、宇宙の果ての向こう側はどうなっているのか、という疑問が生じる。逆に無限だとすると、こんどは「ここ」を指定できなくなてしまう
 このように、有限説も無限説も誤っていて、どちらも「正しい」と言えない。宇宙は有限が無限化という問いは、決して答えの出ない問、アンチノミーだということになる
 
②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か
③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
 
84 なぜアンチノミーが生まれるのか
 「世界全体」は、もののような客観的な対象ではない、だから答えが決まらない
 空間と時間の流れ全体を見渡すような視点をもつことはできない。あくまでも、さまざまな証拠にもとづいて時間を遡ったり、既知の空間からさらに遠い先を推理したりする作業ができるだけ。
 空間・時間の中に位置づけられる対象については、答え(共通理解)がつくれる。しかし世界全体はそのような対象ではなく、限りなく時間を遡り、遠くを想像することによって、究極の全体性として思い描かれたもの。
 世界全体とは「理念」(=思い描かれた完全性)である。だから決して認識の対象として与えられることはない。そうではなく、決して到達されえない永遠の目標として、認識に課せられたものとしてあるのだ
決して実現されないが永遠の目標として課せられているものという意味で、世界全体のことを「統制的理念」(認識を導く理念)とも呼んでいる
 
86 理性が持つ二つの「関心」
 「完全性」を求めること。理性による推論は、世界全体を完結した完全なものとしてつかもうとする。なぜか。世界の全体がつかめると、そこに「自分」や「現在」を位置づけることができて、安心できるから
 ②限りなく問い続けることで真理に近づこうとする、という探求心
 この問いつづける関心からすれば、有限説は探求をストップした不完全なものにすぎない。そうみなすところから「無限説」が生まれてくることになる。
 つまり、有限説と無限説の違いは、理性の持つ関心の二側面、「全体を知って安心したい」と「もっともっと問い続けたい」という二つに由来している。
 
 
87 ③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか
 正命題 (自由はある)「自然の諸法則にしたがう原因性は、世界の諸現象がそこからことごとく導出されうる唯一の原因性ではない。さらに自由による原因性がそれらの諸現象を説明するために想定される必要がある」→(この系列はすべて自然の法則によって決定されているのではなく、自由意志によってこの系列を新たに始めることができる)
 反命題(自由はない)「いかなる自由もなく、世界におけるすべてのものはもっぱら自然の諸法則にしたがって生起する」
 
 系列の始まりとしていったん「自由の原因性」を認めるならば、人間にも自由が認められていいはずだ、と言います。こうして論点は神の存在から、人間の自由意志の存在につながることになる。
 
第三のアンチノミーでは正・反双方の主張を認めている。第一、第二アンチノミーでは正・反どちらも成り立たないとしていたのに対し、第三アンチノミーでは観点を変えればそれぞれに成り立つ理由がある、という。
 「人間に自由はある」と「自由などない」の二つが共に成り立つ、とはどういうことか?
 
 
92 ④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か
 物事の偶然性・必然性(様相のカテゴリーにもとづくもの)
 何かの事柄が起こったとする。ある山の噴火。そのさい、この噴火はいくつかの原因によって条件づけられている。条件が1つ変わったら噴火しなかったかもしれない。その意味で、噴火は偶然的なものであって、必然的に起こるとは言えない。同じように、身のまわりの物事は基本的に条件づけられたもの=偶然的なものと言える。
 そこで、あらゆる事柄についてその成立条件をたどっていくと、最終的には、何ものにも条件づけられない、必然的に存在するもの(神)があるはずだ、と考える立場が出てくる。これは、第三アンチノミーの第一原因とほぼ同じ推論(また、別の考え方も出てくる。条件の系列の最後ではなく、系列の「全体」こそが「端的に必然的な存在者」なのだ、というもの)
 このように、「端的に必然的な存在者」を認める立場(正命題)に対し、そのようなものの存在を認めない立場(反命題)もでてくる。
 証明方法は第三アンチノミーとほぼ同じ。
 
93 理性は「理念」を思い描く
 心の自由や神についての議論が、現実世界を離れ、想像の世界に飛躍しているという指摘は分かりやすい。
しかし、宇宙の始まりや宇宙の果て、あるいは眼前にある物質の根源は、感性で直観できる「空間」や「時間」と地続きなので、人間にも認識できると錯覚しがち。
しかし先に述べたように、「世界全体」を想像するとき、じつは空間・時間を飛び出してしまっている
 理性は推論に推論を重ね、究極的に無条件なもの(究極の真理)に至ろうとする性質を持っている。
この「究極的に完全なもの」として、理性が思い描くものを「理念(イデー)」と呼ぶ。
感性が直観を、悟性が判断をつくったように、理性は理念をつくる
しかし、四つのアンチノミーが示したとおり、理念は経験(空間・時間)を超えて出ているので、それについて正しい答えを導くことはできない
 
 しかし、カントは、理念は「探求の目標」として人間に課せられてものだと述べている。つまり、まったく無意味なものではない。究極の真理にたどり着くことは永遠にないが、人間(特に科学者)は、そこを目指して可能な限り探求しなくてはならない、という。
 そして、理性は完全なものを理念として思い描くのだが、その働きが最も有効なものとして発揮されるのは、じつは認識や理論の領域ではなく、行為(道徳)の領域だと考える。理想的な完全な道徳的社会の一員であるように人は行為しなくてはならない、という
 
95 ブッダ。毒矢の例え。いままさに毒矢が刺さって苦しんでいる人がそんな問題を考えるだろうか、そんなことを考えていたら死んでしまう。人間にとって大事なのは、その毒や、つまり煩悩による苦しみを解決することであり、宇宙の果てがどうなっているかということや、死後も魂が生き続けるかどうかはどうでもよい。
 
 神や魂の不死はどうでもよくなるかというと、そうではない。『純粋理性批判』の終盤で、これらは再び取り上げられる。「神がいる/いない」ということは理論的には決定できないが、「よく生きる」ためには神や魂の不死を信じることが必要だ、という議論をしている。神の問題を「いるか/いないか」という問いから切り離したうえで、「なぜ人は神を求めるのか」という問いに変換して復活させようとする、と言ってもいいでしょう。
 そのさいもう一つ重要な意味を持ってくるのが、人間の自由意志についての議論。第三のアンチノミーでは、いったん「ある」とも「ない」ともいえないと結論されたが、自由がなければ道徳を語ることにも意味がなくなってしまう。
 
 
 
第4回 自由と道徳を基礎づける
理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになる。
ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか?
 その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった
「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づける
この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとする。
第四回は、科学が主導権を握りつつあった世界にあって新しい道徳の復権を目指したカントの思索を通して、知識や科学だけでは解決できない「人間的価値や自由の世界」を深く見つめ直す。
 
98 それでも人間に自由はある?
 人間の理性には、
①世界の全体を「完全なもの」として知り尽くしたい。
②完全な生き方をしたい(「最高の善い生き方をせよ」と理性は命令を下す)
理性は、「完全なもの=理念」を思い抱く能力。その理念は、認識の面では実現されることはない
しかし、人が実践(=行為)するとき、理性は「完全な道徳的世界」という「実践的理念」にもとづいて「~すべし」と命令してくる
 
カントにとって、道徳的に生きることは、そのまま最高に充実した生を意味していた。
ニーチェは激しく拒否。生の充実と高揚は、恋愛や音楽、芸術(アート)、などの場面で現れるのであって、道徳ではない。
 
人間は欲求の言いなりになるだけではない。喉が渇いたからといって、隣の人のペットボトルを奪って飲んではいけない、と考えることができる存在。それが正しい行動かどうかを考えて、自らの行動を自分の意思で選ぶことができる。その点で、生理的欲求に従うほかない犬や猫とは違う。
 つまり人間は、他者を尊重しながら、社会の一員としてふさわしい道徳的行動を考え、選択することができる。理性的判断に基づいた道徳的行動にこそ人間の自由がある。
 
101 道徳が自由をつくる
 ――タチの悪いうそをついた人を、なぜ人びとは非難するのだろうか。もちろん探せば、いろんな理由を指摘できるだろう(たとえば、力あるものから脅されてそうしたのかもしれません)しかし、それを無視して、理性による意思決定ができたはず、と人は信じる。だからこそ、うそをついた人を非難するのだ。
 このように、私たちは「実践」する立場では自由の存在を信じている。
 
他人の意見に無批判に従うとこ「他律」(ヘテロミー)
自分自身の主体的で理性的な判断に従うこと「自立」(オートノミー
 
 カントにとって「自由に生きる人」とは、人の言いなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為すること
 カントの言う自由とは「勝手気まま」「欲望の開放」ではない。
 
 カントがこう考えた理由を理解するには、時代背景を抑えておくことが重要。伝統的に人の生き方に答えを与えてきたのは宗教だった。ヨーロッパではキリスト教。近代にはいると、カトリックプロテスタントの対立を背景に、キリスト教の求心力は少しずつ失われていった。そして何より「自由」の観念が一般化することで、伝統やしきたりと一体化した信仰はその力を失った。
 旧来の信仰に変わる、新たな生の目標を示す必要がある――これこそがカント道徳論の根底にある問題意識。
 
103 人間が立脚する二つの世界
 人間の自由は「ある」ともいえるし「ない」ともいえる正反の命題はどちらも成り立つ
   ↓
 人間が「現象界」と「叡知界」という二つの世界の属しているから
 
 人間の行動を外から見れば――認識の対象(客体)とした場合は、すべて因果律で説明することができる
 「脅されたから」「気の弱い性格だったから」
 この時、人間の自由を認めることはできない。
 空間・時間を伴なう「現象界」に属しているものとして人間を見る限り人間には自由はない
 
 行為をしている本人の立場からは
 あのとき、うそをつかないこともできた、と感じているかもしれない。その人も、いつも他人の意のままになっていたわけではなく、自分がどう行動すべきかを主体的に判断して行為したこともあった。
 なぜ、実践的な立場からすれば、自由が「ある」のか?
 
 カント認識論において、外から見た人間の行動は、空間時間の中で生じたことなので現象界に属す。
しかし同時に、人間の心(魂)は、私たちが認識しえない「物自体」の世界、叡知界にも属しているとされる。
つまり、認識の対象(客体)としての人間は現象界に属し、その行動は自然法則で説明されるものの、実践の主体としての人間は叡知界に属しているので、その行動は自然法則を超えた「自由な原因性」でありうる
 
 実践の主体としての人間をカントがどうとらえたか?
 カントは人間の「認識」の構造を完成・悟性・理性の3層で説明した。
ところが、実践の主体として人間を見るときには、感性と理性の二層が判断や行動のベースになる。
 ここでの感性は、空間・時間的な直観を生み出す働きではなく、欲望や感情をとらえる働きを指す
とにかく私たちは「もっと欲しい」「サボりたい」といってた欲望に引きずられるが、こうした特徴をカントは「傾向性」と表現した。
 こうした傾向性をもつ感性は受動的なもの。食べたい、眠りたいという欲望はいわば向こうから「やってっ来る」のであって、自分からつくり出したわけではない。なので、感性の欲望や傾向性のままに行動する限りでは、因果性にとらえられたまま。
 これに対して、「道徳的に生きよ」と命じるのが理性の働き。人間は一方で、欲望と傾向性によって引きずり回されるが、それを理性でもって「正しい行為かどうか」と判断し、コントロールしようとする。
 人間は、いつも感性(欲望)と理性の2つによって引っ張られている存在。
 
 認識における理性と、実践における理性とでは、意味合いがかなり異なる。
前者を、「理論理性」、後者を「実践理性」とよんで区別している。
 どちらの理性も、それぞれ「理念」を描くという点では同じだが、理論理性が「完全なる世界」を理念として思い描き、辿り着けなくてもそれを目指して探求するのに対し、実践理性は「完全なる道徳的世界とそこでの生き方」を理念として思い描き、それをそのまま実践するように命じるという差異がある。そして、道徳的行動を命じる実践理性を持っているところにこそ、人間の尊厳があるという。
 
107 「道徳的世界」の根本ルール
 『人倫の形而上学の基礎づけ』、『実践理性批判
 
 実践理性の描く道徳的世界
 「理性的存在者(理性を持つ者)からなる国家」であって、そこに自分を含むすべての人間が所属している。そのメンバーは対等で自由な存在であり、何よりもお互いを尊重しあわねばならない。道徳的世界は、みなが互いを尊重しながら平和に共存する世界。
 
 道徳論に大きな影響を与えたのはジャン=ジャック・ルソー。どんな貧しい人でも身分の低い人でも、同じ人間である。
ルソーが『社会契約論』で提起した対等で自由な共和国の理想を、道徳的世界として読み換えたところに、カントの道徳法則は成り立っている。
 
111 理性の究極の関心
①私は何を知りうるか―理論理性の働きで、世界の正しい認識を求めるもの。「私が知りうる」のは、「空間」と「時間」のもとで直観された現象界のみ。現実の時空を超え出た究極の真理は、私たちはけっして知りえない。
 
②私は何をなすべきか―実践理性の求めるもの。「私がなすべき」は道徳的に行動すること。実践理性は易きに流れる感性の「傾向性」をいさめ、人間を完全なる生き方へと導く。
 
③私は何を望んでよいか―「私は何を希望することが許されるか」。
「道徳的に生きることは何に値するか」と言い替えている。→「幸福」に値する。
道徳的に生きる人は幸福を得る資格がある。
ここで重要なのは、幸福になるための手段として、道徳的な生き方があるわけではない。道徳的に生きた結果として「幸福に値する」ことになる。
 
しかし、道徳的世界の一員にふさわしく、現実の社会を正しく生きたとしても、幸福には恵まれないかもしれない。どうしたらよいのか?→「神」と「魂の不死」
 
114 神の存在は「要請」される
 善行に必ずしも幸福が伴わない、「徳副不一致」の現実はいつの世にも存在する。
 このような現実世界にあって、道徳的に正しく生きることを支えてくれるのが神への信仰である。
 
 「神はいるのか/いないのか」という究極真理の問いは無用としつつも、「なぜ人間は神の存在を問い続けて来たのか」「なぜ人間は神を必要としているのか」と問いを転換させることで、これを人間の生き方を考えるために有用な問いへと再設定したといえる。
 
116 カントが思い描いた理想郷
 わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。それは、わが頭上の星を散りばめた天空と、わが内なる道徳法則である。(『実践理性批判2』中山元
 
 ところで僕たちは、人間の品位を高く評価し、人間を精神[精霊]と同じ列に高める自由の能力が人間にあることを承認することに、どうして今頃思いついたのであろうか。人類がそれ自体としてこんなに尊敬すべきものと考えられるということは、此の上ない時代の良い兆候だと、僕は思う。それこそ、圧制者たちと地上の神々の頭から後光の陰が消えると言う証拠なんだ。哲学者たちがこの品位を証明する。(1795年4月、シェリング宛の手紙。『ヘーゲル書簡集』小島貞介)
 
 カントの道徳論は、決して滅私奉公や自己犠牲を強いるものではない。カントの言う「道徳的な生き方」には、自分自身への配慮が含まれている。他者の幸福を考えて行為するだけでなく、自分のことも尊重し、自分の能力を進歩させなくてはならない。それも大切な道徳的な義務である。
 
120 カントの捉える主観は、感性と悟性で認識をつくり出すだけでなく「究極の真理」に憧れ、また生活上の必要を抱くだけでなく「よい生き方」を求めるものでもあった。
 
121 あらかじめ絶対の「正解」を想定する(これは独断論になる)のでもなく、人それぞれの答えしかないと決めつける(これは相対論になる)のでもなく、「人びとが納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能か」と考えていく。そういう姿勢をカントは示唆している。
 
122 カント哲学の難点
 道徳を議論不可能な領域においてしまった点。カントの道徳論について、何を根拠にして賛成したり批判したりすればいいのかわからない。
 カント曰く、根拠を示しながら議論を重ね、合理的に共有できる知となりうるのは、「空間」と「時間」の枠組みを伴なった現象界に現れるものだけ。ということは、私たちは道徳を理論的に考察することはできないということになる。
 
 カントの認識論についても、感性・悟性という認識の構造について、それが妥当なものであるかどうかを、どうやって人は確かめることができるのか、明確にされていない。
 
123 共有知として哲学を蘇らせる
 こうした問題点を指摘しつつ、カント哲学を発展的に継承したのがエトムント・フッサール彼はカントによって叡知界に追いやられた道徳を再び現象に取り戻し、根拠を上げながら考えて議論する道を開いた
 そのさい、「現象」の意味合いをフッサールは大きく拡張している。
 カントの考える現象は、「空間」と「時間」の中で見たり触ったりすることに限られ、それについては共通理解がつくることができるとした。
しかしフッサールは、事物や事実だけでなく、道徳や自由、あるいは神についても、それなりの仕方で人は体験している(意識の中に現れてくる)のであって、「現象」に属するものであるとみなす
 たとえば、面倒なことに首を突っ込みたくはないが、これは見て見ぬふりをするわけにはいかないと思うとき、私たちは道徳を体験している。あるいは、神をこの目で見ることはできないが、神を信じる人が今日あったことや考えたことを神に語りかけるとき、その人はそういう仕方で神を体験している、ということができる。
見たり聞いたりすることだけが体験ではなく、想像したり思考したり憧れたり祈ったり怒ったり、などのすべてが体験であり現象であるとフッサールはみなす。
 このように考えれば、まったく体験できない物自体(叡智界)を想定する必要はなくなる。こうして、すべての物事は広義の意味での「現象」であるから、これを考察すればよいとして、物自体の世界をなくしてしまったのがフッサールの創始した「現象学
 
 
 
 
 
 
 
<プロデューサーAのこぼれ話>
そそり立つ巨大な壁、カント
正直に告白しておかなければならないことがあります。私は大学の学部生時代と大学院時代を合わせると合計6年間、哲学を研究してきましたが、ついにその期間中にカントの「純粋理性批判」を読み通すことができませんでした。もう少し正確にいうと、冒頭の感性の仕組みを解き明かしたくだりと、4つのアンチノミーを論じるくだりだけはなんとか読み通すことができました(それでも決して理解できていたとはいえませんが)。
全くもってお恥ずかしい限りなのですが、哲学を専攻していた人間が何度アタックしても途中で挫折してしまう…それほどまでに難解なのが、カント「純粋理性批判」なのです。この経験がトラウマとなって「100分de名著」で取り上げるのをずっと躊躇し続けていました。ところが、この2年ほど、AIやIT技術の発展で新たな形の「科学万能主義」が席捲し始めていることを受けて、「私たちは本当に自由な選択を行っているのだろうか。むしろビックデータやAIによるデータ解析に操られているだけではないのか」という問いにあらためて直面させられていました。その時にあらためて思い起こされたのがカントによる「自由」についての議論だったのです。
こういう時代だからこそ、あらためてカント「純粋理性批判」を読み返す意味があるのではないか。しかし、独力でこの本を読み通す自信は全くない。そこで、まずはとっかかりとして、今まで何冊か哲学の本を読み解いてくださった西研さんの研究室の扉をたたくことにしました。西さんは、「カントを読み解くには、まず彼の問題意識をきちんとおさえるところから始めたほうがよい」というとても貴重なアドバイスをくださいました。
西さんによれば、純粋理性批判」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、近代科学の最初の波が勃興。科学を使えば世界の全てを説明することが可能だとする啓蒙の時代を迎えていたといいます。そんな中で、西欧人たちは二つの大きな難問に突き当たりました。それは「科学は本当に客観的な根拠をもっているのか」「科学で世界の全てが説明できるとすると、人間の価値や自由、道徳などの居場所はあるのか」の二つです。その難問を考え抜いたカントは、理性の能力を精密に分析。「人間が知りうるものの範囲をどう確定するか」や「人間が知りえないものについてどんな態度をもつべきか」といった根本的な問題を明らかにすることで、難問に回答を与えようとしたのが「純粋理性批判だというのです。科学万能主義が席捲していた18世紀ヨーロッパと、AI至上主義が唱えられる現代はとても似ているのではないかと、西さんの解説をお聞きしながらあらためて痛感し、「人間にとっての自由」や「人間が考えることの意味」をあらためて深く考えなおしてみるためにも、「純粋理性批判」を読み直すべきではないかとこの時直観したのでした。
それからおよそ3か月ほどの時間をかけて、実に30年ぶりに「純粋理性批判」を完読することができました。もちろんすべてを理解できたわけではありませんが、西さんからいただいた「著者の問題意識」という羅針盤が大いに助けになったことはいうまでもありません。初読のときには、全くとりつくしまがなかった論点についても「ああ、おそらくこんな複雑な議論をすすめているのは、カントが直面していた近代の二つの難問をなんとか解決しようとした形跡なのだな」と考えると、ディティールはわからないまでもなんとか議論についていくことができました。読み終えたときには、これまで未踏だった険しい山に登頂し、素晴らしい風景を見通せたような感慨をもちました。ガイドしてくれた西さんに心から感謝したいと思います。
純粋理性批判」の詳しい内容ついてには、番組やテキストを通じてすでにご覧いただいていると思いますが、その議論を短くつづめていうと以下のように要約できるかと思います。
カントは、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。いわば、私たちは「感性」と「悟性」という共通のメガネをかけていて、このメガネの性能を詳しく分析していけば、共通理解の土台を確保できるというわけです。また、この共通のメガネでとらえられない問いは、人間の理性では決して答えの出ない問題だとすることで、それまでの哲学が追究してきた「神の存在」「魂の不死」「宇宙の全体」といった問題を一気に始末してしまうわけです。
これらの議論の後、カントは一転して、この共通のメガネでは決してとらえられない「物自体」の世界に「人間の自由の根拠」を求めていくわけですが、この議論は、現代人の目からみるとややアクロバティックにみえるかもしれません。ですが、「人間の尊厳」をあくまで理性の力で救い出そうとするカントの強靭な思考には心から敬意を表したいと思います。このあたりの「人間の自由や価値」に関する議論の更なる発展については、現象学者のエドムント・フッサールが一つの方向性を示していると西さんにお聞きしているので、機会があったら、ぜひ西さんとともにフッサールの著作を読み解いていけたらと思っています。最後に、私自身、大好きなカントの文章をひいて、この「こぼれ話」を締めくくりたいと思います。
頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である」(カント「実践理性批判」より)

読んだ。 #ルソー #エミール 自分のために生き、みんなのために生きる #西研 #100分de名著

読んだ。 #ルソー #エミール 自分のために生き、みんなのために生きる #西研 #100分de名著
 
はじめに 真に自由な人間を育てるために
5 今回ご紹介する『エミール、または教育について』は、『社会契約論』と同じ1762年に出版されました。『社会契約論』が自由な社会の「制度論」を展開したのに対し、『エミール』は自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。この2冊はいわば車の両輪であり、2つで1体の書物だといえるところがあります。
 
 カント、ヘーゲルマルクス
 
第1章 「自然」は教育の原点である
子どもの発見
15 子供には発達段階というものがあることは現代においては常識ですが、この当時のフランスでは子どもは「小さい大人」としか見られていませんでした
 
16 万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(中略)人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない。
 しかし、そういうことがなければ、すべてはもっと悪くなるのであって、わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。
(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、上巻27ページ)
 
17 教育の根幹「三種類の先生」による「三つの教育」
①自然の教育=先天性
②人間の教育=普通の意味の教育
③事物の教育=経験から学ぶ
 まず「自然の教育」というときの「自然」とは、人間の内なる自然のことを指します。子どもが手足を自由に動かせるようになったりだんだん言葉を覚えたりするのは、人間の内なる自然によるもので、いわば自然そのものが教えてくれる、ということです。次に「人間の教育」とは、親や学校の先生、家庭教師など、大人による一般的な意味での教育のことです。そして「事物の教育」とは、子どもが現実のさまざまなモノやコトに出会って経験から学ぶことを意味します。
 「自然の教育」における内的発達には段階があって不変なものなので、これが教育の柱になるべきだとルソーは考えます。つまり、この自然の発達段階に沿うようにして、「事物の教育」「人間の教育」は行われなくてはならないのです。
 
「自然人」と「社会人」の対立を克服する
独学の天才、ルソー
 
人間の不平等の起源は農業にある
25 ジョン・ロック『統治二論』
民主主義と人権の思想の源流となった
 <人間は身分などに関係なく、みな対等であり、どんな人間でも、他者の「生命、健康、自由および所有物」を奪ってはならない。それは人が生まれながらにして神から与えられた「自然権」である>。このロックの自然権の思想が、後に「人権」と呼ばれるものへと発展していきます。ロックはさらに、自然権を守るために対等な人々が契約して政府をつくり議会で持って法をつくる、という民主主義の基本的な考え方を定めました。
 ちなみに、ルソーは、権利の根源は神から与えられたものではなく、人間同士の合意に基づく社会契約にあると考えます。そして人民主権の立場を、ロックよりもさらに明確に打ち出すことになるのです。
 
29 未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか生きられない。そしていわばただ他人の判断だけから、彼は自分の存在の感情を引き出しているのである。『人間不平等起源論』
 ここでいう「他人の判断」とは、名誉、富、権力、名声といったものです。つまり、自由な未開人とは異なり、社会に生きる社会人には自分をはかる基準が自分の内側にはなく、他人から評価される基準しかないというのです
 
「エミール」刊行、そして迫害
 
自然の発達に従う――第一編 乳幼児期
36 子どもが、「自然の道にとどまる:つまり本来の発達の道を歩んでいくための、四つの「確率」=「規則」
・第一の確率――自然に与えられた子供の力を十分に発揮させること
・第二の確率――肉体的・知性的な必要を、養育者が助けてあげること
・第三の確率――必要なことだけに限って助け、気まぐれや理由のない欲望には何も与えないようにすること
・第四の確率――子供を注意深く観察し、直接に自然から生じる欲求と臆見から生じるものとを見分けること
 
37 子供が感覚や感情や欲求を育てていくためには、「愛情」が、より正確にいえば「承認と応答の関係」が、必須であるということです。
 児童精神医学者の滝川一廣さんによれば、不快で泣いていた赤ちゃんは、養育者が「おなかが空いたのね、おっぱいあげる」「おむつが冷たいね、取り替えてあげるね」というふうに適切に対応してあげていると、最初は混沌としていた不快から、「空腹の不快」と「冷たさの不快」とが分化してくる。お腹が空いたときとおむつが冷たいときでは泣き声に違いが生じてくるので、それがわかるのだそうです。しかし逆に、「泣いたら哺乳瓶を口に突っ込まれる」というような対応を受け続けていると、感覚がちゃんと分化していかない。ですから、虐待されて育った人には感覚の異常が見られることが多いといいます。たとえば、とても寒い日なのにTシャツ一枚で平気、というように・・・・・・
 これはつまり、子どもの感覚は、養育者が愛情をもって適切に対応するなかで育つということを意味しています。感情や欲求にも同様のことが言えます。「どうしたの、悲しいの?」「怒ったの?」、あるいは「お腹空いたの?」「美味しくなかった?」というように、親が子供の感情や欲求をきちんと承認し、それにふさわしく応答することで、初めて子どもの感情や欲求は育ってくる。そうした承認と応答のことを心理学では「モニタリング」といいますが、このモニタリングがちゃんとなされず、親の機嫌が不安定で、突然起こり出したりするようだと、子どもはいつも親の機嫌をうかがっておかなければならず、自分の感情や欲求を訴えることができません。極端な場合には、「自分はいま怒っているのだ」「自分はこれが好きなのだ」ということもわからなくなります。自分という存在の主体的な核ともいうべき、感情や欲求が自覚できなくなってしまうのです。
 自由な人間になるためには、自分の感覚や感情や欲求を、しっかり自分のものとして自覚できることが重要です。ルソーも愛情の大切さに触れてはいますが、現代の視点から見ると、そうした子どもとの承認・応答関係による、感覚・感情・欲求の主体化(=親の承認と応答によって、子どもは自分の感覚・感情・欲求を自分のものとして自覚することができる)という視点が、やや足りない部分かと思います。
 
41 ヴォルテール『市民の意見』で、ルソーの私生活を暴露、攻撃した。
 
44 ピアジェの4つの発達段階
 
 
 
第2章 「好奇心」と「有用性」が人を育てる
事物から学ぶ消極教育――第二編 児童期・少年前期
47 二度とない快活な年頃の子供時代に、精神的苦痛を与えて無理やりに勉強させたりせず、今を存分に楽しませ、生きる喜びを味わわせてあげよう、愛をもって子どもの遊びを見守ってあげようといいます。
 このような自分の考えに対して、やはり将来が大事だとする異論が多くの人から出てくるだろうが、人間の持つ「先見の明」(未来を予測する能力)がかえって人間を不幸にすることがある、とルソーはいいます。先見の明とは、「私たちを絶えず私たちの外へ追い出し、いつも現在を無と見なして、進むにしたがって遠くへ去っていく未来を休む暇もなく追い求め、私たちを今いないところに写すことによって、決して到達しないところに移す、あの偽りの知恵」だというのです。
 
 「わたしたちの欲望と能力との間の不均衡のうちにこそ、私たちの不幸がある。その能力が欲望と等しい状態にあるものは完全に幸福といえるだろう」
 
最初の「正義」――「そら豆のエピソード」
・エミールはそら豆を植える。しかし、あるときそれが掘り返されていた。それは庭師のロベールのやったことだった。 そら豆が植わっていた場所に実は先にロベールがメロンの種を植えていたのだった。家庭教師は謝罪。その後、エミールと家庭教師は畑の隅を少しだけ使わせてもらうことにする。
このようにして、エミールは、「所有」や「正義」の観念を学ぶ。
 
感覚と運動の訓練
59 だれにもまったく依存しないというのではなく、必要な時に適切な相手に適切な程度で依存できることが、自立なのではないでしょうか。自立した大人というのは、仕事でも生活でも、うまく他人に頼る事が出来る人なのではないかと思います
 なんでもできて他人に頼らないのが自立であり自由なのだとルソー自身が述べているわけではありませんが、頼れるところがあって初めて人は自由に自分の力を発揮することができる、という視点はあまりないように思います。教育や介護のような「支援」の営みにおいても、この視点を自覚することは大切だと思います。
 
「好奇心」による研究の時期――第三編 少年後期
「地球と太陽」のエピソード
太陽の軌道について考えさせる。質問に答えてはいけない。自分で考えさせる。
「問題発見・解決型学習」「アクティブラーニング」のルーツとも言える。
 
・「ヒルの芸人」というエピソード
 
「有用なもの」の学習
・「近くの森が、エミールが暮らしているモンモランシーの北にある」ということを知っていることが何の役に立つのかを教える。あるとき、森で道に迷う。森が北にあるという知識があれば、南に行けばよいことがわかる。そこで、地理的知識が役に立つことがわかる。
この段階で初めて読書を許す。まず最初は『ロビンソン・クルーソー』を読ませる。
 
社会関係を知る
 
 
第3章 「あわれみ」が社会の基盤になる
自己愛と自尊心――第四編 思春期・青年期
77 さて、ルソーはまず、すべての情念の源でありその根本となるものは、自分に対する愛、すなわち「自己愛 amour de soi」なのだといいます。人はみな自己を保存しなければならないのだから、そのために自分を配慮し自分を愛さなければならない。その意味で、自己愛は常によいものであるとルソーはとらえます。ところが、この自己愛という根本的な情念が悪い方向に変形していくと、「自尊心 amour propre」になります
 「自分にたいする愛[自己愛]は、自分のことだけを問題にするから、自分のほんとうの必要が満たされれば満足する。けれども自尊心は、自分のほかのものに比べてみるから、満足することはけっしてないし、満足するはずもない」――自尊心は、自己愛と違って、自分が他者と比べてより優れた存在でありたいという欲望のことです。そこには競争心が含まれますが、競争心には際限がありません。一度他人よりも自分の方が優れていると思えたとしても、より優れた人が出てくれば、さらにその人に打ち勝ちたいという気持ちが生じます。また自尊心は、他人に対して「自分を他の誰よりも愛すること」を、さらに他者自身よりも自分の方を愛してくれることを要求しますが、これは不可能なことですから、いつまでたっても満足することはできません。ですから、「和やかな、愛情に満ちた情念は自分に対する愛[自己愛]から生まれ、憎しみに満ちた、苛立ちやすい情念は自尊心から生まれる」とルソーは述べます。
 
「あわれみ」を人類にまで伸ばす
80 「人間を社会的にするのはかれの弱さだ。私たちの心に人間愛を感じさせるのはわたしたちに共通のみじめさなのだ」
「こうして私たちの弱さそのものからわたしたちのはかない幸福が生まれてくる」
 
81 「憐れみ(同情)」の三つの格率
第一の格率:人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。
第二の格率:人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。
第三の格率:他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。
 
「同情は快い。悩んでいる人の地位に自分をおいて、しかもその人のように自分は苦しんでいないという喜びを感じさせるからだ。羨望の念はにがい。~自分はそういう地位にはおかれていないという恨めしい気持を起こさせるからだ。」
 
84 「かれは人々の不幸にたいして同情をおぼえると同時に、そういう不幸をまぬがれている自分の幸福を感じる。わたしたちをわたしたちの外にまでひろげさせ、快い生活をおくってなおあまりあるわたしたちの活動力をほかのもののうえにそそがせる、そういう力の状態にある自分をかれは感じる。」
 これは「自分のことばかり考えていないで、お国のために死になさい」「社会のために身を捨てて貢献しなさい」というような、滅私奉公や利他主義の思想とは正反対の考え方です。自分の利益を捨てて善行をなせ、と命ずるのではなく、自分の余った力を他人にふりむけよ、とルソーはいいます。ですから、善行をなしたときに、「よいことをしてあげてよかった。自分は悪い人間ではないのだな」と思うことも偽善ではない。そうではなく、善行は「自分はよいことをしている」と思えるときの「喜び」に支えられて成立する、というのが、ルソーの発想なのです。喜びや快を大事にするルソーらしい発想とも言えます。
 
社会と人間~ ~歴史の教育
どう生きるかの根本の指針を持つ――「サヴォワの助任司祭の信仰告白
 
神の存在と人間の自由
93 「生命のない物体は運動によってのみ動かされるのであって、意思のないところにはほんとうに行動といえるものは存在しない。これが私の第一の原理だ。だから私は、何らかの意思が宇宙を動かし、自然に生命を与えているものと信じる。これが私の第一の教理、つまり、私の第一の信条だ」
 
 「一定の法則に従って動く物質はある英知[知性]を私に示してくれる、これがわたしの第二の信条だ」
 
 「動く物質はある意志をわたしに示してくれるのだが、一定の法則に従って動く物質はある英知をわたしに示してくれる。(中略)そういう存在者が存在するのだ。どこに存在するのが見えるのか、とあなたはきくだろう。回転する天空のなかにだけでなく、わたしたちを照らしている太陽のなかにも存在するのだ。わたし自身のうちにだけではなく、草をはむ羊、空を飛ぶ小鳥、落ちてくる石、風に吹かれていく木の葉のうちにも存在するのだ。」
 
「わたしはこの全体が何の役に立つのかは知らない」
「それぞれの部分が他の部分のために作られていることはわかる」
「だからわたしは、世界は力強い懸命なある意志によって支配されていると信じる。私にはそれが見える。というより、それが感じられる」
 
96 デカルトは『省察』で、人間は二種類の実体でできていると説きました。思惟する実体としての「精神」と、延長(空間的な広がり)をもつ実体としての「肉体」です。実体というのは他から創り出されることのない、究極的な存在という意味の言葉です。つまり、精神は物質から生まれてくるものではないし、また物質のほうも精神とは異なった実体であって、精神から生み出されるものではない、というのがデカルト物心二元論でした。
 ルソーはそれを承けて、精神は自由意志を与えられているので、肉体からくる情念のン命令を自分で判断して受け入れることもできれば、拒絶することもでき、そこに理性が働くと考えます。「神は、人間が自分で選択して、悪いことではなくよいことをするように、人間を自由にしたのだ」。さらに「最高の楽しみは自分自身に満足することにある。わたしたちが地上におかれて自由を与えられているのは、情念に誘惑されながらも良心にひきとめられるのは、そういう満足感を楽しむことができる者になるためなのだ」
 
人生の指針をつくり、「不寛容」に反対する
100 <人生の中で不遇な状況にあっても、やはり人としてなすべきことをして生きればよい。神様は必ず見ていてくれる>。
 
 では、「不遇なときに、どうやってまっすぐに生きられるか」という問いを、「神なし」でどう考えるか。この課題に立ち向かったのが、ルソーよりも百数十年後のドイツの哲学者ニーチェでした。彼が示したのは、<恨みや妬みは自分自身を貧しくする、ということを深く自覚したうえで、わずかであっても喜びのほうに自分を向けていく>という生き方です。この考え方が結晶したものが有名な「永久回帰」の思想になる
 
106 理神論、理性宗教、自然宗教
世界と天地の創造主としての神を認めるが、人格的な意志発動者としての神は認めず、節理・恩寵・啓示なども認めない、合理的な宗教観が「理神論」。ほぼ同義で、人間の自然的理性・洞察にのみ基づく宗教が「自然宗教」。またたとえばカントが道徳の延長線上で考えようとした宗教は、道徳自体が理性に基づいている点で「理性宗教」といえる。
 
 
 
第4章 理想社会のプログラム
ソフィーという女性像――第五編 青年期最後の時期
道徳の最後のレッスン
113 「きみがまだ克服することを学んでいない新たな敵が~立ちあがってきたのだ。その敵とは、きみ自身だ。」
「いまでは、きみは自分で自分にあたえているあらゆる結びつきににばられている。欲望を感じることによって、きみはきみの欲望の奴隷になってしまった」
「どんなことがあっても彼女と一緒にならなければならないとしたら、ソフィーが結婚していようといまいと~そんなことはどうでもいい、きみは彼女をほしがっている、どんな犠牲をはらっても彼女を自分のものにしなければならない、ということになる」
「自分が欲していることにはどんなことにでも抵抗できない者は、結局、どんな恐ろしい罪におちいることか」
欲望を最高の掟にするのではなくて、自分の両親が最高の掟にならなくてはならない
 
115 「有徳な人とはどういう人か。それは自分の愛情を克服できる人だ。そうすればその人は自分の理性に、良心に従うことになるからだ」
「いまこそじっさいに自由になるがいい。きみ自身の支配者になることを学ぶがいい」
<欲望に支配されず、義務・美徳をめがけて生きることにこそ自由と幸福がある>
 
自由=欲望の開放ではない
 
政治の原理を学ぶ――『社会契約論』
「ソフィーはまだ18歳にもなっていない。あなたはやっと22歳になったばかりだ。そういう年齢は恋愛の時期で、結婚の時期ではない。なんという若い父親と母親! 子どもを育てられるようになるために、まあ、せめて、自分が子どもでなくなるまで待つがいい。……
 あなた自身のことを話そう。夫となり父となることを願っているあなたは、その義務を十分に考えてみたことがあるのか。一家の主人となることによって、あなたは国家を構成する者になろうとしている。だが、国家を構成する者であるとはどういうことであるか、あなたにそれがわかっているのか。あなたは人間としての義務を研究してきた。しかし、市民の義務というものを、あなたは知っているのか。政府、法律、祖国(国家)とはどういうものかわかっているのか。……あなたはなにもかも学んだつもりでいるが、じつはまだなにもわかっていないのだ。市民の世界のうちに一つの場所を選ぶ前に、その場所を知ることを、そこでどんな地位があなたにふさわしいかをよく知ることを学ぶがいい。
 エミール、ソフィーと別れなければならない。わたしは、あのひとを捨てろ、と言っているのではない。あなたにそんなことができるとしたら、あのひとは、あなたの妻にならないほうがよっぽどしあわせだろう。あのひとにふさわしい者になって帰ってくるために、別れなければならないのだ。」
 
120 これは、ロックの「自然権」の考え方と対照をなしています。第1章でも触れましたが、ロックの考えでは、自然権とは国家の成立以前に、神から与えられたものでした。人は、他人の生命、健康、自由、所有物を侵してはならないが、そのかわりに自分の生命、健康および所有物は誰からも侵されないという権利をもっている――これが自然権です。
人びとがそのような自然権を主張しつつも上手く折り合いをつけていられる間はよいのですが、ひとたび主張がぶつかり合って揉め事となった際に、それを調停する機関がないと、場合によっては殺し合いにまで到り、復讐の連鎖につながりかねない。このような事態を防ぎ、個々の自然権を守るために国家がつくられるというのです。
 ロックのこの考え方は、アメリカの独立宣言に強い影響を与えています。これは現代のアメリカでも根強く、リバタリアン自由至上主義者)と呼ばれる人たちの考えはこの自然権思想が基本になっています。
リバタリアン<あらゆる正義の中のもっとも根本のものは、個々人の活動の自由と、自分で稼いで得た所有物に対する権利である>と考えます。ですから、自分が稼いだものの一部を国家が税金という形で取り上げて貧しい人たちに再分配するのは盗みと同じだといいます。だから「小さい国家」にして、所有と自由を守るということに国家の役割を限定すべきだと考えます。これはしかし、現在は事実上、白人の裕福層が、黒人やヒスパニックの貧困層に自分たちの富を再分配する必要はないと主張するための「排除の理論」になってしまっているようです。
 それに対して、ルソーの考え方だと、あらゆる権利は社会契約によって生じるので、みんなが対等に心地よく平和共存するために必要な限りにおいて、個々人の権利が認められるということになります。つまり、人びとが平和に共存する公共性のほうを、個々人の権利に優先させているのです
 ただしこれは、国家の暴走を許す論理に悪用される可能背もなくはないので、その点では、ロックの自然権のほうがよいと考える人もいるかもしれません。しかし、公共性を重んじて、権利というのはあくまでもその中で承認されるものだというルソーの考え方のほうが、合理性が高いとぼく自身は考えています。
 
「一般意志」とは何か――民主主義の根本問題
123 「一般意志」の原語は volonte generale(ヴォロンテ・ジェネラール)、「みんなが欲すること」という意味なのです。
 
 「一般意志の最高指揮」という契約条項の言葉は、じつは「人民の主権」を表す言葉だったのです。
 
 この考え方のポイントは、法の正当性の根源は「一般意志」であって、多数の賛成がそのまま正当であることを意味しない、というところです。もちろんいろいろと話し合った結果、ひとつに結論がまとまらないことも当然あるわけで、そのときは最終的に多数決で決めるしかありません。ただし多数決というのは、あくまでも「決めるための方法」でしかないのです。ぼくなりにこの考え方を敷衍してみると、こんなことも言えそうです。――ある法について、それは一部の人たちを苦しめるものであって「一般意志」に反する悪法であると考える人がいるかもしれません。その場合には、「とりあえず多数決で決まったその方には従うけれど、それは一般意志ではないと私は考える」と主張を続けて、それに同意する人が増えていけば法が変わる事もありうる、ということにもなるでしょう
 これはまた、「一般意志」と「全体意志」とは違うということも意味します。すべての「個別意志」を集計した結果である「全体意志」(これもルソーの言葉です)は、しばしば少数派を犠牲にした多数派の意志になりがちです。多数派工作をしたり党派的利害を押し出したりして、一部の人たちの利益をみんなの利益であり「一般意志」であると称して法にしてしまうことが起こりうる。これは、まさしく民主主義の根本問題です。
 
126 さらに一つ大事なことがあります。一般意志の具体化である法はあくまでも「一般的なこと」だけを規定するものとされていて、個別の事項について定めることはできないとされます。ですから、議会でつくられた方を個別の事例に適用することが必要になりますが、これは「行政」(執行機関)にゆだねられます。そして、国王というのは行政の長であって、役人の一人にすぎないとルソーはいいます。あらゆる権利と法の源泉は人民の社会契約にあり、その正当性は「一般意志」にあるのだから、国王もそれに従って行政を行わなくてはなりません。また、議会は定期的に開かれなければならず、そこで行政が正しく法に則っているかがチェックされて、もし不適切であれば行政の長を罷免したり、また選んだりできる。そのようにして議会は行政をコントロールしていくことになります。
 
現代日本に『エミール』を生かすために
129 <ただ欲望を解放したり、他人からの評価や承認を求めて右往左往したりするのが自由なのではない。欲望をコントロールする良心をもち、集団や社会にほんとうの意味で役立つには、と問いながら、しっかりと「自分の軸」をもって生きるとき、人は初めて自由だといえる>
 
132 もう一つ、別の論点ですが、ルソーやカント、ヘーゲルのような、「自由」を求めたヨーロッパの思想家の人間観は、いささか自立と自由に偏っていると感じるところがぼくにはあります。人間観としてはむしろ、「自由と依存のバランス」というイメージのほうが一般性があると思うのです。小さいころに最大だった依存の比率が、成長するにつれて次第に減り、自由な活動の領域が大きくなっていく。でも大人になって何をするにしても、依存を完全になくすことはできません。何かのさいに誰かに相談したり適切に頼ったりできるほうがいいのです。第2章でも論点として挙げましたが、頼らない自立ではなく、適切に頼れる自立が大事だと考えます。
 
 
 
ブックス特別章 自由に生きられるための条件を考える
136 日本の社会には、言うまでもなく、人権と民主主義を土台とした憲法がありますが、私たちは正直なところ、これからどんな社会を形づくって生きていけばよいか、また、そういう社会をになるメンバーにはどのようなことが求められるのかについて、よくわからなくなってしまっているのではないでしょうか。
 なぜよくわからなくなっているのかについて、大まかに二つの理由が指摘できると思います。
 
「公共」にどう対してよいか、わからない
137 私たちの社会は、急速に個別化した社会です。現在よりも半世紀少し前になりますが、1960年の統計では、第一次産業の自営業者が労働人口の約3割いました。かなりの数の人たちが、昔ながらの村の生活、つまり父祖伝来の土地を代々耕す生活をしていたことになります。この状況が激変するのが、60年代の高度経済成長期でした。国は「新産業都市」のような工業化の拠点を各地に作って経済発展を推し進め、多くの若者たちが都会に出ていきました。
 そのとき若者たちが求めたものを、「自由」という言葉で呼ぶことも可能だと思います。田舎では皆が知合いです。安心感もあったでしょうが、昔ながらのしきたりをうるさく感じる人もいたでしょうし、昔からの有力者が幅をきかせるのを嫌に思う人もいたかもしれません。
 そんな田舎から抜け出て、都会で自分で稼いで豊かになる。誰かと恋愛して結婚し、誰からも干渉されない自分たちだけの生活をつくる。文学や演劇や音楽のような、田舎にない都市の文化に触れる。これらは当時の若者たちにとって大きな魅力だったことでしょう。そして、世界史に類がないようなスピードで、日本人は農村の生活を捨てて都会化し「個人」となっていったのです。今、韓国、台湾、中国でも、同じようなことが起こっているわけですが。
 こうして多くの人々が都会で暮らすようになり、農村もまた、かつてのような濃密な人間関係を失っていきました。さらに消費社会化と情報社会化の進展によって、一人ひとりの関心はますます多様になっていきました。こうして「他人には迷惑をかけずに、自分の生活を自分で望むような仕方でつくっていく」という自由を私たち日本人は求めてきたのですが、では、地方自治体や国家のような「公共的なもの」に自分はどうかかわればよいのか、について、ハッキリとした考えがつくられ共有されてきたとは、いえません。
 
141 もう一つ指摘しておきたいのは、市民の中だけでなく、学問や思想の世界の中でも「社会をどのようなものとしてつくりあげていけばよいか」ということ、つまり「社会の理念」が失われてしまっている、ということです。
 
143 国家についても、「国家はそもそも悪である」という見方をすべきではなく、国家の果たすべき役割、つまり、国家の存在理由が市民たちの間でハッキリと理解されていて、それを果たしていないからこそ批判される、というふうになるべきでしょう。「反国家的な気分」をもつだけでは、地域や社会をともに作っていくための思想にはなりません。
 
「自由な社会」の理念から再スタートする
143 こうして、日本社会では「社会理念の不在」が続いてきたのですが、では私たちは、どこを社会理念の土台にすればよいのでしょうか。そうあらためて問うてみたとき、それぞれの人の生き方の「自由」が尊重されていることが、まず必要だと考えます。つまり「一人ひとりが生きていて、それぞれが自分なりの仕方で生きていきたいと思っている。そうした一人ひとりの思いと行動とを、お互いに認め合って尊重する」という意味で、各人の自由の相互承認が、社会の土台となるべきでしょう。
 さらに、そのような人びとが一緒に生きていくためには、人としての「対等性」の感覚を大切にしつつ、必要なことについて一緒にさまざまな都合や事情を語り合いながら、どうやって一緒に生きていくのがよいかを考えあう。そして「一般意志=みんなの欲すること」をルールとして取り出しながら、さまざまな場面や地域での自治をつくっていく。さらには国家としての自治をつくっていく。こうして、一般意志こそが社会の正義の基準となる。そういうことになるのではないか。
 
自由な生き方ができるために必要なこと
やりたいこととめがけるばき価値をもつ――自由であるための条件その1
149 ここで家庭教師は、子ども(エミール)の欲求を尊重して見守っています。子どもの欲求は、養育者の見守りがなければ、より正確には「承認と応答」がなければ、育っていきません。養育者の機嫌が不安定でいつ怒りだすかわからない、そんな状況の下で育つ子どもは、自分がどうしたいかよりも、まずは親の機嫌を先に考えなくてはなりません。そうやって育つと、自分の欲求が自覚できず、自由な人間へと育つための土台をつくれないことにもなりかねません。
 自分の欲求を親に対して表出でき、そしてそれを親から認めてもらう。こうすることによって、子どもの中で自分の欲求がはっきりと自覚される。そして、欲求の自覚が自由な主体性の土台になる。こういう事情をルソーはよくわかっていたと思います。
 
将来のために役立つ技能・知識を身につける――自由であるための条件その2
価値を吟味する力と自治しうる力を育てる――自由であるための条件その3
自由な生き方と自由な社会をめざして
 
 
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読んだ。 #日本文化の形成 #宮本常一

読んだ。 #日本文化の形成 #宮本常一
 
1.日本列島に住んだ人びと
 1.エビスたちの列島
・エミシという言葉
8 エビスという言葉がある。夷の字を書くことが多いが、蝦夷とも書いた。そして、古くはエミシとよぶことが多かったようで、蘇我蝦夷という人の名はソガノエミシとよんでいる。蘇我蝦夷蘇我氏の氏長で大和の飛鳥のあたりにいて大きな勢力を持ち、紀元六四五年に中大兄皇子中臣鎌足らに攻められて、その邸で自殺しているが、それまで大和地方で最も大きい勢力を持っていた。その人がどうして蝦夷と名乗っていたのであろうか。
 
日本史の教科書に蝦夷が初めて登場するのは恐らく坂上田村麻呂の件でしょう。
中央国家から見れば、制圧され、支配されるべき存在であった「蝦夷」という言葉を以って、蘇我入鹿の父であるほどの人物がなぜ蝦夷と名乗ったのか。
 
蝦夷は毛人とも書き、いずれも高貴な身分の者が名乗る例があります。
著者は、この毛人という字面から、冒頭の素朴な疑問の答えとして「毛が深かったためではないか」と言っています。
しかしながら、「毛が深い」という認識は「毛が薄い」人との接触、そして比較によってはじめて自覚されるものです。
 
9 そういうところへ、朝鮮半島を経由して多くの人々が渡来し、国土統一の上に大きな役割を果たした。朝鮮半島を経由して来た人びとはもともと貧毛の人が多かった。貧毛の人たちからすれば多毛な人はたくましく見えるであろう。毛人と書き、エミシと名乗る人たちの心の中にはそうしたたくましさへのあこがれもあったはずである。そしてその人たちは外から渡来してきた人たちではなく、もともとそこに古くから住んでいた人たちであった。
 
古来から日本に住んでいた人たちは毛深く、大陸から来た人たちは貧毛であった。
著者は、毛深い原住民は「狩猟や漁撈」をその主な生活手段としていたと書いています。
その点で、縄文文化時代においては、北海道・東北は西南日本と比較して食料が豊富であり、人口密度も高く、文化的に優れていたと推測しています。
 
・エミシとは誰か、そして、誰でないのか
 ところが、大和の地に国家が成立するにつれて、原住民は異端視されることとなりました。
720年に完成した日本書紀には、「東夷の中に、蝦夷是れ尤だ強し。」と始まって、東国から東北にかけ、身体能力が高く、農耕に従わず、狩猟に従事する人びとが存在し、いかに野蛮であるかが描かれています
 
といっても、これに留まらず、蝦夷は東北に限らず西南日本にもいたようであることが指摘されています。
その根拠を著者は「古事記」や「日本書紀」に求めます。
 
登場するのは、あの「恵比寿様」です。
 
26 (中略)このコトシロヌシを、後世の人はエビス神としてまつっている。とくにこれをまつっているのは、古くは漁民仲間が多い。そして漁民たちは日本の沿岸に多数住みすいており、漁民もまたエビスであった
 
コトシロヌシはもともと出雲の地にいたのが高天原から下ってきた二人の神に国をゆずったという「日本書紀」の記述や、狩猟民から神としてまつられていたことから、エビスは狩猟を生業とする日本古来の原住民を指すのではないか
地理的な問題で日本列島を統一した大和の国家と接触する機会に乏しい東北の原住民たちは、国家からはいつまでたっても「エビス」のままであって、いつしか「エビス」は未開を意味することとなった。
 
そう著者は指摘しています。
 
また、「日本書紀」「風土記」では、土蜘蛛国栖(くず)海人(あま)と呼ばれた人々が描かれており、彼らは関東以西にあって漁撈や狩猟を生業とするものたちでした。
彼らもまた縄文文化の伝統を受け継ぐものではないかと指摘しています。
 
以上のように、蝦夷とはもともと縄文期から日本にいた人たちであって、統一国家が形成されてなおその文化の影響を受けず、縄文期以来の文化を継続させていた人たちのことであるというのが著者の主張するところでありました。
関東以西にいた土蜘蛛や海人たちは徐々に大陸文化を取り込んだ統一国家に支配され、彼らの生活は大きく変わったものと思われます。
一方、北海道・東北にいた蝦夷たちは、西南日本で形成された統一国家との地理的な関係性の結果によって、つまり原住民とは異なる文化を持つ人たちの繁栄によってはじめて異端視されることとなったのです。
 
では、縄文期から住んでいた毛深い人を野蛮であると書きたてた国家のルーツとはなんなのでしょうか。
 
17 1000年は40世代なのである。
(さて一人の人間が成長して結婚して子供をもつことができるようになるのはだいたい25歳前後であるから)(1000/25=40)
 
24 『日本書紀』の景行天皇四十年
東夷あずまえびすの中に蝦夷えみし是これ尤はなはだ強し。男女交居まじりゐて、父子別無し。冬は則すなはち穴に宿ね、夏は則ち樔すに住む。毛を衣しき血を飲みて、昆あに弟相疑ふ。山に登ること飛禽の如く、草を行はしること走獣の如し。恩めぐみを承けては則ち忘れ、怨あだを見ては必ず報ゆ。是を以て、箭やを頭髻たきふさに蔵かくし、刀を衣の中に佩はけり。或は党類を聚あつめて辺界を犯し、或は農桑のうそうを伺ひ以て人民を略かすむ。撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山に入る。故かれ、往古以来未だ王化に染したがはず。
 
26 ところがコトシロヌシという神は、奈良県の山中にも古くまつられていた。『延喜式』という書物を見ると、大和葛上郡に鴨都味波八重事代主命という神がまつられている。葛上郡はいま葛城といわれているところで、そのあたりにはもと鴨とよばれる部族が住んでいた。のちに山背(城)に移って賀茂と書くようになるが、もとはその字のごとく鴨をはじめとして鳥類をとらえることを生業としたもので、やはり狩猟民であったと思われる。その人たちのまつった神にコトシロヌシがあり、土地の人は今日エビス神としてまつっている
 このようなことから考えあわせてみると、古くから日本列島に住んでいて、狩猟や漁撈にしたがっている人びとがエビスと呼ばれたのではなかったかと思う。そののちに日本列島を統一し、支配した民族とよく接触したエビスたちは、自分たちの統率者を神としてまつったが、大和朝廷の支配者たちと比較的接触の少なかった東北のエビスたちは、エビスという言葉が未開を意味するようにとられるにいたったのであろう
 
 
 2.稲作を伝えた人びと
 
 
 
2.日本文化に見る海洋的性格
 1.倭人の源流
 2.耽羅・倭・百済の関係
 3.北方の文化
 4.琉球列島の文化
 
・稲作をもたらしたものと武力国家をもたらしたもの
70 つまり私のいってみたかったのは弥生式文化と古墳文化はおなじ大陸からの文化でありながら、その渡来の経路が違っていたのではなかったかということである。そして弥生式文化というのは稲作をもたらしたものではあったが、ほとんど武力をともなわない文化であった。銅器が渡来しても、利器としての銅器は鋳直して平型銅剣や広幅銅矛にして祭祀呪術に用いたと見られ、また銅鐸のようなものを作っている。これも祭器であったと考える。
 しかし朝鮮半島を経由して来た文化は武力的な要素をたぶんに持ち、武力による国家統一を進めていった。『日本書紀』にあっては、神武天皇以後の歴史は武力統一の歴史であるといってよい。そしてそれは武器のみが伝来したのではない。人もまた徐々にではあるが、朝鮮海峡を超えて多数入り込んできた。しかもその入り込んできた期間はきわめて長かった。西暦起源の頃からはじまって10世紀の終わり頃まで、およそ1000年にわたっている。
 
著者の結論を先に紹介しました。
僕自身、邪馬台国(=弥生式文化)の誕生から大和政権(=古墳文化)の国家統一までが連続的につながっているという習い方をした記憶はありませんでしたが、著者もその二者のルーツが異なることを主張しています。
 
先に日本における稲作の起源について整理しましょう。
 
35 もともとこの列島の上には稲作は行われていなかった。稲作は大陸から渡来したものであるが、それも華北から朝鮮半島を南下して日本にもたらされたものではなく、中国の沿岸から朝鮮半島の南部を経由して、日本にもたらされたものではないかと見られている。そして、それを物語るような遺跡が北九州で発掘されている。福岡県粕屋郡新宮町に夜臼というところがある。そこから縄文系の土器が発掘されているが、この土器は弥生初頭の土器と共伴することで、縄文から弥生へ土器の変化する過程を知ることができる。
 ところがその夜臼式の土器を出す島原半島原山支石墓群の土器の破片に、籾の圧痕のあるものが発見された。すると縄文晩期の頃には、北九州に稲が渡来していたことになる。(中略)
 弥生式文化初期の稲作を伴なう遺跡はいまのところ北九州に多いようで、現在の状況からすると、日本の稲作は北九州に起こったといってもよいのではないかと思う。そしてその米は朝鮮半島からもたらされたものであろうが、その米作は朝鮮半島を北から南へ下った海をわたって日本列島にもたらされたものではないようである。朝鮮北部には今日まで稲作の古い遺跡は発見されていない。
 
本筋ではないのでここでは詳細に触れませんが、稲作は朝鮮半島からではなく、中国大陸から沿岸伝いに朝鮮半島を経由し、日本に伝来したようです
一旦このような形で稲作が伝来すると、農耕によって土地へ定着するようになり、呪術的支配による国家の形成に至りました。
この時代にも青銅器が大陸から輸入されていたようですが、これらは武器でなく銅鐸や鏡など農耕や祭祀の目的で利用されるものが主だったようです。
 
では稲作をもたらしたのは何者なのか。
著者はこの人たちこそを「倭人」であるとし、そのルーツは揚子江から南の主として海岸地方に居住した「越人」ではないかと指摘します。
「倭」とは『魏志』「倭人伝」の「倭」、「越」とは『呉越同舟』の越ですね。
 
越とは中国最初の王朝と呼ばれる「夏」の末裔と言われ、海に潜ることが上手で、体に入墨をし、米と魚を常食とする海洋民族と見られますが、『魏志』の「倭人伝」で描かれる「倭人」もまた、同様の特徴を持っていたようです
52 日本へ稲作が渡来するするのと、越(えつ)が呉を滅ぼして江南の地に国家を形成したとき(紀元前473年)とほぼ時期がおなじようである。越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省福建省広東省、広西省からベトナムにわたっていた。竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国である。この民族の一派が倭人ではなかったかと考える。そして舟またはいかだを利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったと考える。そして倭と邪馬台国とは一応区別してみていくべきものと思う
 
越人はベトナムまで勢力を広げており、「夏」も東南アジアの原住民をルーツにもつと言われています。
東南アジアが日本の米のルーツであるとする説からも、この越人たちの稲作が日本に伝わったと見るのは筋違いとは言えないでしょう。
 
面白いのが、魏志』は西暦290年ごろに書かれたと見られていますが、日本へ稲作が渡来して600年も過ぎたころで、これはちょうど弥生式文化の時代から古墳文化の時代への移り変わりのタイミングであったということです。
(そして『日本書紀』は西暦720年に撰出されたもので、律令国家が成立した後であり、稲作が日本に渡来してから1000年の後に、日本の歴史が文字として記録されたもの。)
その頃の『魏志』に書かれた「倭人」の姿は越人の影響を強く受けているが、逆に華北朝鮮半島北部の影響が見受けられないということが読み取れるのです。
 
倭人は中国の南方から海岸沿いに朝鮮半島南部へと至ったとされていますが、彼らはどのようにして日本と朝鮮半島とを行き来していたのでしょうか
著者は、『後漢書』の「韓伝」に、朝鮮半島の南部に「倭」があったと記されている記述を頼りに、倭人朝鮮半島南部に自らの植民地を築いたと推測します。
この植民地を拠点に倭人は日本へ渡り、日本の西部にもまた植民地をつくりました。
これが『魏志』「倭人伝」にある「倭国」でありますが、これは「邪馬台国」とは別種のものであることを匂わす記述が『旧唐書』にも見られるとのことです
 
46 魏書東夷伝にみる諸民族の記録>倭人
 倭の人々は、帯方〔郡〕の東南にあたる大海の中の〔島々〕に住んでいて、山や島によって国や村をつくっている。もとは百余の国々に分かれていて、漢の時代には朝見して来る国もあった。今、通訳をつれた使者が〔中国や帯方郡に〕通って来る所は、三十国である。
 〔帯方〕郡より倭に行くには、郡を出発して、まず海岸に沿って航行し、韓〔族〕の国々を歴て、乍<しばらく>は南に、乍は東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。〔この間の距離は〕七千余里である。
 〔そこから〕始めて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。この国の大官は卑狗<ひく>といい、次〔官〕を卑奴母離<ひぬもり>という。住んでいる所は海に囲まれた孤島で、広さは四百余里四方ほどである。土地は山が嶮しく、深林が多く、道路は禽獣(けもの)が通う小径のようで、狭く嶮しい。〔人家は〕千余戸ある。良い耕地はなく、人々は海産物を食糧として自活しているが、船によって南北〔の国々〕から米穀を買い入れてもいる。
 次に南へ海を渡り、千余里すすむ。この海の名は瀚海といい、一大国(壱岐)に到着する。〔この国の長〕官もまた卑狗といい、次〔官〕は卑奴母離という。広さはほぼ三百里四方である。〔この国には〕竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。耕地は少々あるが、耕地を耕すだけでは食糧を確保することができないので、〔対馬国と〕同じく南北から米穀を買い入れている。
 また一つの海を渡り、千余里行って末廬国(佐賀県松浦郡)に到着する。人家は四千余戸あり、〔人々は〕山裾や海浜に沿って住んでいる。草木が繁茂して、〔道を〕すすんで行っても前に行く人の姿を見ることができない〔ほどである〕。〔この国の人々は〕魚や鰒<あわび>を捕らえることが得意で、水の深浅に関係なく水中に潜ってそれら(魚やあわび)を捕らえている。
 陸上を東南に五百里すすむと、伊都国(福岡県糸島郡)に到着する。〔長〕官は爾支<じき>といい、次〔官〕を泄謨觚<せつぼうこ>と柄渠觚<へいきょこ>という。人家は千余戸ある。代々国王がいて、みな女王国に統属している。〔ここは帯方〕郡からの使者が倭と往来する時に常に駐まるところである。
 〔伊都国から〕東南に百里すすめば奴国(福岡市)に到着する。〔長〕官は●馬觚[●は凹に儿]<じばこ>といい、次〔官〕を卑奴母離という。二万余戸の人家がある。〔奴国から〕東に百里すすめば不弥<ふみ>国に到着する。〔長〕官は多模<たも>といい、次〔官〕は卑奴母離という。千余戸の人家がある。〔不弥国から〕南へ水行二十日すすむと投馬国に到着する。〔長〕官は弥弥<みみ>、次〔官〕は弥弥那利<みみなり>という。五万余戸の人家がある。
 〔投馬国から〕南にすすみ邪馬壹<やまいつ>国に到着する。ここは女王の都している所であり、〔長〕官には伊支馬<いしま>があり、次〔官〕を弥馬升<みましょう>、つぎを弥馬獲支<みまかくき>、つぎを奴佳鞮<ぬかてい>といい、七万余戸〔の人家〕がある。女王国より北にある国々については、その戸数やそこへ行く道里<みちのり>をだいたい記載することができるが、その他の周囲の国々は遠く距っていて〔それらの戸数や道里を〕詳細に知ることができない。
 つぎに斯馬国があり、つぎに巳百支国、つぎに伊邪国、つぎに郡支国、つぎに弥奴国、つぎに好古都国、つぎに不呼国、つぎに姐奴国、つぎに対蘇国、つぎに蘇奴国、つぎに呼邑国、つぎに華奴国、つぎに鬼国、つぎに為吾国、つぎに鬼奴国、つぎに邪馬国、つぎに躬臣国、つぎに巴利国、つぎに支惟国、つぎに烏奴国、つぎに奴国(重複か)などの国々がある。ここまでが、女王の支配している領域である。その南には狗奴国があり、男子が王となっている。その〔長〕官には狗古智卑狗がおり、この国の女王には服属していない。
 帯方郡より女王国に至る間の距離は一万二千余里である。
 〔倭〕の男子は、大人・小人の〔身分の〕別なく、みな顔や身体に入墨している。古くから、倭の使者は中国に来ると、みなみずから大夫<たいふ>と称している。〔その昔〕夏〔王朝の第六代の皇〕帝少康の子が会稽(浙江省紹興市地方)に封ぜられた時、断髪し入墨して蛟竜(みなずち)の害をさけ〔身体を守っ〕た。いま倭の水人が水中にもぐって魚や蛤を捕らえるのに入墨するのは、〔少康の子と同じように〕大魚や水鳥の害を防ぎ〔身体を守る〕ためである。しかし今ではそれが次第に飾りにもなっている。〔倭の〕諸国ではそれぞれに入墨の仕方も異なり、或いは左に、或いは右に、或いは大きくし、或いは小さくし、また尊卑〔の身分〕によって〔入墨に〕違いがある。
 〔帯方郡からの〕道里を計算してみると、〔倭は〕ちょうど会稽〔郡〕東冶〔県〕(東冶県とすれば福健省福州付近)の東方〔海上〕にあることになる。
 倭人の風俗は規律正しく、男子はみな冠をかぶらず木綿で頭を巻いている。その衣服は横幅の広い布で、ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は〔夷狄風に〕髪を下げたり、髷を結ったりしており、衣服は単衣のように作り、衣の中央に穴をあけてそこに頭を貫して着ている。人々は、稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績<つむ>ぎ、細麻や縑<かとりぎぬ>や緜<まわた>を産出する。倭の地には牛・馬・豹・羊・鵲<かささぎ>などはいない。兵器には矛・楯・木弓を使用し、その木弓は、下部が短く上部が長くなっている。竹の矢(を使用し)、その鏃には、鉄の鏃あるいは骨の鏃を用いる。〔その産物や風俗・習俗の〕有無の状況は、儋耳<たんじ>(広東省海南島)や朱崖<しゅがい>(広東省海南島)と同じである。
 倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣<はだし>で生活している。また家屋を建築していて、父母兄弟はそれぞれ寝所を別々にしている。彼らは朱や丹を身体に塗っていて、それは中国で白粉を用いるのと同じである。飲食には籩豆<へんとう>を用い、手づかみで食べている。人が死ぬと、はじめ十日余、喪に服する。この間、人々は肉食をせず、また喪主は大声で泣き、他の人々は〔喪主の〕傍らで歌舞し飲食する。埋葬しおわると〔喪主の〕一家中が海や川に入り澡浴<みそぎ>をする。それは〔中国における〕練沐<れんもく>のようである。
 〔倭人たちは〕海を渡って中国に往来する時には、常に一人の人物に頭髪を〔整えるための〕櫛をつかわせず、蟣●<しらみ>もとらせず、衣服は垢に汚れたままにさせ、肉食させず、婦人を近づけず、あたかも〔死者の〕喪に服しているようにさせる。これを持衰といっている。もし航海がうまくゆけば、人々は〔彼に〕生口や財物を与える。しかしもし病人が出たり暴風雨の被害に遭った時には、持衰を殺そうとする。〔そうした凶事が起るのは〕持衰が禁忌を守らなかったからである、というのである。
〔倭の地は〕真珠や青玉を産出する。山から丹を産出する。木には●[木へんに冉]<だん>(くすのき)・
 
・大和政権の成立
65 日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、東北地方を征服し、紀元前108年に満州中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらしたし、多くの武器をもたらしている。それは二つの意味があったと思う。まず武器を持って日本へわたって来た人びとのあったこと。いまひとつは青銅器を必要とする人たちが国の中にいたことであったと思う。
 
※日本へ朝鮮半島を経由して大陸の文化が流入しはじめるのは、漢という国家が成立し、中国の東北地方を征服し、紀元前108年に満州中国東北部)東部から朝鮮半島にかけて、楽浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)・真番(しんばん)の四郡をおいた頃からであった。そしてその文化は日本に青銅器をもたらし、多くの武器をもたらしている。朝鮮半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本に渡航したと見ていい。そういう力が凝縮してやがて日本の武力的統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか神武天皇の東征伝説は、そうした武力による統一の事実が伝承化していったと見てもよい。武力によらなければ強力な組織的な国家を成立させることは不可能で、武力を持った者が徐々に渡来し、やがて結束しやがて律令国家への足場を作っていったものではなかろうか。小さな祭祀王朝の国々を統一して大和朝廷をつくりあげていったのは武力によるものであり、統一国家が生まれるとその統一の維持は祭祀を中心にしてなされるようになった。
 
74 『宋書倭国
武(第二十一代雄略天皇)が、宋の順帝の昇明二年(478年)に使いを遣わして、上表文をたてまつった。
昔から祖禰そでい(父祖)みずから甲冑かっちゅうをきて、山川を跋渉ばっしょうし、ほっとするひまさえなかった。東に毛人(蝦夷アイヌ)を征すること五十五国、西は衆夷(熊襲・隼人など)を服すること六十六国、渡って海北(朝鮮)を平げること九十五国、王道は遍あまねくゆきわたり、領土を拡げ境域は遠くまで及んだ。歴代の倭王は宗主たる天子のもとに使者を入朝せしめ、その年限を違えあやまることはなかった。
 
75 ちょうどこの上表文の書かれた頃、北海道北見地方にはモヨロ人の大きな移動が見られた。モヨロ人たちのことをアイヌユーカラではレプンクルといっているが、レプンクルは海の向こうの人を意味する言葉であるという。それはひとりモヨロ人だけではないであろうと思われる。
 
日本への稲作伝来から500年ほど経って前漢が成立し、ようやく弥生式とルーツの異なる文化の流入が始まります。
武器の流入は軍隊を伴わないものではなかったはず、と著者は指摘します。実際、文献には大陸から進行されたことを記す記述は見当たらないそうです。
この時代で日本と大陸とを積極的に行き来していたのは先述の倭人であって、日本へ渡るには彼らを頼るのが筋であるが、倭人が大陸側から侵略されたような記述も確認できません。
恐らく引き続き倭人が海洋交通を掌握しており、彼らの船を以って武器が流入したと著者は考えます。
 
さらに、倭人が半島に拠点を持ち、海の交通権を掌握していたと考える根拠も示されていました。
1145年に編纂された『三国史記』には、新羅が倭によって63回も侵攻されている記述があります。
かなり時間が経って編纂されたものですから史料としての価値は怪しいものの、日本から侵攻されたという記述がまざまざと残されているところに著者は注目しています。
海を越えて幾度となく朝鮮半島へ軍を送ったということは、倭人が海洋交通を掌握し、さらに半島に拠点を持っていたことを示唆します。
 
朝鮮海峡の航海権を倭人が握っていたとしても、半島にも倭人の植民地があることによって、大陸の文化は半島倭人の手によって日本にもたらされたであろうし、時には強力な集団が侵攻という形をとらないで日本へ渡航したと見ていい。そういう力が凝集してやがて日本の武力的な統一をおこない、統一国家を形成していったのではなかろうか
 
倭人のみならず、秦の始皇帝の後裔といられる新羅系秦(はた)氏もまた日本へも多数移動していたことが確認されます。
なお、本書では、この秦氏は日本全国に分布し、焼畑をもたらしたのではないかとされています。
このように、朝鮮半島からは武器のみならず、徐々にではあるが移民が多数入り込んできたようです。
移民は西暦紀元の頃からはじまって10世紀の終わり頃まで続いたとされますが、これは弥生式文化の収束する時期とも重なっていますね。
 
82 言語学者服部四郎博士は日本語と琉球語が同祖語であることを問題にし、奈良時代の大和地方の言葉と、今日の京都・東京方言を比較してみると、基礎語において81%が残っていることを明らかにし、琉球語について、日本語との共通単語を調べ、比較した結果、現代の京都方言と首里方言は1450年ないし700年前にわかれたものではないかと推定した。つまり、もともと同じ言葉であったものが、ひとつは東へ行き、ひとつは南へ行き、両者の間にはそれほど密接な交渉がなかったために差異を生ずるようになったというのである。するとその分離したところは何処かということになるが、北九州であろうと考えられる。おそらく3世紀の頃、日本の統一王権が、九州から近畿へ移動したであろうとの推定がひとつの基礎になっているのであるが、そのころまで九州と琉球の間には南より北へではなく、北から南へのつながりがかなり強く見られたのではないかと思う。
 
97 ただ、琉球列島から九州南部・四国南部にかけては、男は海に出て潜るが、女は海に出ることが少なく、また潜る風習もほとんどない。そこに南洋文化とのつながりを考えることができる。
 
まとめ
というわけで、稲作の伝来武力の伝来は時期が異なり、前者が弥生式文化に、後者が大和政権の成立に直接的な影響を及ぼしたと考えられるというのが著者の主張です。
大陸からの移民が大和政権のルーツであるという記述は本書にはありませんが、少なくとも前漢成立によって伝来するようになった大陸の文化が、律令国家である大和政権の基盤となっていると考えてよいでしょう。
 
このような律令国家が、自身の文化に迎合せぬ日本古来の原住民たちを指して「蝦夷」と名づけたということです。
 
 
 
 
3.日本における畑作の起源と発展
 1.焼畑
109 佐渡などでは山を焼いたあとへダイコンをまいているが、もともとダイコンやカブラは野生のものではなかったかと思う。山を焼いたあとに作ったものには辛みがない。だからいまもダイコンを作るために焼畑をおこなっているが、東北・北陸の焼畑では古くはみなダイコン・カブラを作っていた。サトイモなども焼畑に作るとエグ味が少なくなったものである。
 つまり山を焼くことによって野獣を捕らえるのに便利であるばかりでなく、焼跡には食糧に適する植物の育成も見られたであろう。そうした経験が、焼いたあとへ一定の植物の種子をまいたり、あるいは根菜を植えるような作業を生み出していったのではないかと思う。このようにして山の頂近いところでも山を焼くことから植物の食糧化が進み、生活をたててゆくこともできるようになっていったのではないかと思う。そのような体験の積み重ねが、焼いたあとの地面を植物栽培に利用するようになっていったのではなかろうか。
(中略)
 焼畑耕作を必用とする人びとは移動性が強かった。狩人はその系列に属する者で、この人たちは野獣を追って山から山へわたりあるいたわけであるが、野獣の多いところには適当な場所を求めてしばらくは小屋掛けをして足をとどめたようで、周囲の山地を焼いて焼畑耕作をおこなうことが少なくなかったと考える。
 焼畑習俗を持つ村々には狩をおこなっているものが多いのである。青森県下北半島の畑・川名などはもと焼畑をさかんにおこなっていたし、秋田の阿仁(北秋田郡)付近のマタギの村々でも焼畑をおこなっていたと聞いた。九州山脈南部の山間の村々も早くから狩猟を生業の一部としているものが多いが、そこにもまたさかんに焼畑がおこなわれていた。
 
113 大和吉野地方はスギの造林が近世初期からさかんにおこなわれたが、造林するためには、その土地に植えている雑木を一切伐り取らねばならぬ。伐りとってそれを焼き、そのあとへ植林するのであるが、いきなり苗木を植えるのでなく、2、3年は畑として利用し、ソバ、ヒエ、マメなどを作り、そのあとへスギを植える。そのようにしてスギの造林を進め、やがては山地の大半をスギの林でおおうようにしていったのである
 土佐の場合も雑木林を伐って焼き、ソバ、ヒエ、マメを作り、ここではコウゾやツマタを植え、焼いてから10年近くはそういうことに利用したあとへスギの植林をおこなっている。この場合にはスギ造林の手段として焼き畑がおこなわれあのであって、すぐれた山林経営であった。この両地方だけでなく、スギの造林の盛んになっていった地方を見ると、元焼き畑の行われているところが多かった。だから焼き畑がスギばかりでなくヒノキなどを含めた針葉樹の人工造林を進めていく上に、大きな役割を果たしていることを見逃してはならない。
 
115 しかし焼畑耕作もまた大陸に起源を持つものもあるかと思う。武蔵という国名はムサシとよむ。そしてサシは焼畑を意味する朝鮮語であるという。武蔵の西武山地から甲斐へかけて、サシまたはサスという言葉のついた地名が多い。指・差の字が書かれている。そういうところはたいてい焼き畑をおこなっていたところである。東京の町の中の指ケ谷ももとは焼畑をおこなっていたところではないか。相模もサシガミからきたのではないかという。そうすると武蔵も朝鮮半島から渡来してきた人たちがこの地方に定住するようになって名づけられた地名ではないかということになるが、彼らの定住以前から武蔵の地名はあったともいう。
 
 2.古代中国の農耕
 
 3.渡来人と農耕
121 それでは日本で焼畑と定畑を発達させていった根幹になる人々とはどういう人であっただろうか。私は大陸から朝鮮半島を経由して日本に渡来した人びとではなかったかと考える。その暗示を与えてくれるのが陸田をハタとよぶ言葉である。ただしハタはハタケとよぶこともある。山口県では焼畑のことをハタとよび、定畑のことをハタケまたはシラバタケとよんでいた。畠と書くのがそれにあたり、火田と白田は区別されていた。しかし陸田をハタまたはハタケとよんでいることは興味深い。ところで秦の字もハタとよんでいる。ハタ耕作を伝えたのがこの人たちではなかったかと考える。さらにまた織機をもハタといっているのは秦人がその技術を伝えたものではないかと思っている。もとより秦人のみが畑作農耕や機織の技術を伝えたのではないが、この仲間が日本の生産技術の進歩に貢献したことはきわめて大きかったので、この人々のことを中心に日本における畑作のことを考えていってみたい。
 
137 土は焼くことによって酸性から微酸性にかわっていく。土壌の酸度によってそこに育つ作物はかわっていくものである。例えば定畑の作物の間に茂る草は、一般の野草とおのずから異なるものがある。農地を荒らして三、四年もたつと、そういう草は茂らなくなってチガヤのようなものが茂ってくる。酸性の強い火山灰土地帯では、ほとんどカヤの系統の草が茂るが、酸性が緩和されてくると畑に茂る雑草と同じようなものが茂り始める。かつて副食物として利用されたと見られる、セリ、ナズナ、ハハコ、ハコベ、オオバコ、ダイコン、カブラなどは、そうした酸性の緩和された土壌に育つものであり、野を焼くことによって、そういうものが茂るようになったのだと思う。
 
161 つまり、私のいってみたかったのは、短粒米揚子江付近から朝鮮半島の南部をへて日本へ、長粒米の赤米琉球列島を北上して日本へ、陸稲朝鮮半島の奥部から南下し、主として秦人によって日本にもたらされたものではなかったかということである。しかし陸稲の栽培は、日本ではそれほどの発達を見なかった。水稲が安定作物であり、圧倒的に伸びていったことも原因していよう
 
166 麻績(おみ)郷のあったのは、信濃伊那郡、同更級郡、下野安蘇郡、同河内郡、同芳賀郡、上総周淮郡、下総海上郡陸奥伊具郡などであった。その分布から見ると、古い縄文文化を受け継いでいるものではないかと考えるのであるが、これはにわかに決めることはできないであろう。
 
 
付 海洋民と床住居
178 稲作は朝鮮半島を経由して伝えられたものではあるが、中国北部から満洲、朝鮮北部を経由し、朝鮮南部から日本へ渡ってきたというようなものではないという。朝鮮北部には、紀元前300年ころの稲作の遺跡は見つかっていないという。そうすると米は中国大陸から朝鮮半島西岸をへて、日本に伝えられたとみられる。日本への文化の流入は、海を越えてくる以外にルートはない。そしてそれは米と米を作る技術だけが日本に渡来したのではなく、稲作技術をもったものが籾をもって日本に渡来してきたと見ていい。
 
183 高倉に米をかこうのは単なる保存だけはなく、稲の命を守ることが大きな目的であったのだろう。南から米を持ってきた人々は高床の家に住む者は少なかったが、米は高倉の中にしまておいた。高倉は秀倉(ほくら)ともいったのではなかろうか。祠と書いてホコラとよんでいるが、もとはホクラといったものかと思う。そして、神はホクラに祀ったものと思われる。日本の神社を見ると、拝殿には土間のあるものもあるが、神殿はほとんど高床になっている。なぜ神を高床に祀らなければならなかったか。また、なぜ米を高床におさめなければならなかったか。ともに神聖なものは高所において守ることによって神威を保ち、魂を再生させると考えたにほかならなかった。このような考え方は中国北部のものではない。東南アジアの稲作地帯に見られるものである。すなわち、稲作を日本にもたらした人々の思想と文化であると見てよい
 
184 そしてこのような文化は、そのはじめ海洋的な性格をもった南から来た人々が日本にもたらしたものであったと考えられる。それは高床住居の古い住い方を見るとよくわかる。大和法隆寺の東院の境内、夢殿の北に伝法堂という建物がある。東西に長く、板張りのガランとした建物であるが、これはもと橘夫人美千代の家であったという。橘美千代は藤原不比等の夫人であった。今日のこっている貴族の住居としては最も古いものであるが、これが住居かと思うと、あまりにガランとしていて驚くのである。この住居を見てすぐ思い浮かべられるのは「源氏物語絵巻」の寝殿造りである。平安時代の貴族たちの生活は絵で見れば華やかであるが、誠に寒々としたものである。
~こうした寒々とした家は北方系のものではない。南からもたらされたままの住様式である。これは朝鮮半島の住居などとおよそ違うものである。
しかも神の祭をおこなうために穢れることを忌み嫌った。穢れの中のひとつに土に接することがあった。神の祭祀に直接携わるものを殿上人とよび、地下人と区別した。そして板の上で生活し、外出する時も牛車に乗った。そしてできるだけ土に触れないようにした。このような生活と思想は北方文化の中から生まれたものではなかった
 
191 琉球には糸満という漁民集落がある。その活動はすばらしいものがあるが、それは男だけの活動で女は陸で生活している。この人たちは方々に出漁し、その活動範囲は西はアフリカのザンジバルから東はハワイにおよび、日本本土でも対馬隠岐、出雲をはじめ、太平洋岸は伊豆、牡鹿半島に及んだ。そしてそれぞれの土地に追込み網の漁法を伝えている。その活動範囲の広さと勇敢さには驚愕するものがある。それがしかもサバニと呼ばれる小舟に乗っての航海である。
 
 
 
196 昭和5年、6年(1930、1931)22歳、23歳
こうしたことから、積極的に古老からの聞き書きをするようになり、周囲の村にも最終の足を伸ばすようになるが、郷里では「気狂い」とうわさされる。
 
211 昭和29年(1954)47歳
この年より昭和34年にかけては渋沢敬三より旅行をとめられ、もっぱら執筆活動。ただし、渋沢敬三、外国旅行中は国内各地をあるく。
 
213 昭和32年(1957)50歳
この頃、谷川健一とはかって平凡社より『風土記日本』(全7巻)刊行。この編集と執筆にはたいへん情熱を注ぎ、そのため、また身体をこわす。ようやくくらしの息がつけるくらいになる。戦後ずっと定収入なし。あまり金にならぬ雑文を書いてわずかに糊口をしのぐ。
 
216 昭和38年(1963)56歳
10月、渋沢敬三逝去。渋沢の世話になること、昭和14年以来25年におよぶ。渋沢から、はじめ遊歴人、昭和32年以降は箱入息子といわれたが、あるひ、どれくらい歩いたか調べてみよとのことで、ざっと計算してみると、旅行日数約4000日、通過した町村(旧村)3000、足をとどめて話を聞いた箇所800、民家にとめてもらうことおよそ1000軒であった。
 この年、武蔵野美術大学より教授就職の要請があり、渋沢はじめて承諾す。それまで就職の口かかるも渋沢が宮本にかわって拒絶していた。できるだけ束縛のない状況におきたかったものと思われる。
 
 
解説 網野善彦
 
校訂にあたって 渡部武
243 当時先生が所長を務めておられた近畿日本ツーリスト日本観光文化研究所(通称「観文研」、現在の「旅の文化研究所」の前身)で、所員に向けて月に一度、第二金曜の夕刻に講義が行われた。最初は江戸期から明治期にかけての旅行記を先生独自のフィールドワーク体験を交えながら話された。ご子息千晴氏の覚書によると「古川古松軒の『東遊雑記』からはじまって、曾良の日記と『奥の細道』がはさまり、菅江真澄の『遊覧記』、野田泉光院の『日本九峰修行日記』、河合継之助『塵壺』、菱屋平七『筑紫紀行』、イザベラ・バード『日本奥地紀行』、ケンペル『江戸参府旅行日記』、シーボルト『江戸参府紀行』と続いて、モースの『日本その日その日』でひとまず終わった」とのことである。
 
245 「われわれが気がつかない、つい見落としてしまうことの中に、大事な歴史があると思うんです」
※われわれが気がつかない、つい見落としてしまうことの中に、大事な歴史があると思うんです。
定説というのは迷信であって、本当の学説ではない。
定説にしばられると学問は停滞していく。

読んだ。 #核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 #岸田文雄

読んだ。 #核兵器のない世界へ 勇気ある平和国家の志 #岸田文雄
 
 
はじめに
 
 
第1章   故郷・広島への想い
生い立ちと家族
ニューヨーク時代
四賢人のビジョン
27 もちろん、オバマは彼なりの「理想主義」だけではなく、「現実主義」に根差した言葉も演説の中に散りばめています。「世界に核兵器が存在する間、米国は安全な方法で核兵器を維持する。敵を抑止し、同盟国に安全を保障するためだ」という部分はその最たる例と言えるでしょう。これ以外にもオバマは「時間はかかるが、世界を変革できることを信じている」と述べています。つまり、「自分の生きている間に核全廃は難しい」という、極めて当然であり、かつ、リアリスティックなメッセージも伝えているのです。
 
29 オバマが朧げに示した核全廃に関する道筋に関連して、ペリーらはかつて「三つのステップ」という考え方も示しています。
 最初のステップはオバマ自身も強調していますが、米国とロシア両国が新しい核軍縮交渉を始めるということです。そして、第二のステップでは米ロ両国がその保有核弾頭数を現在の数千発レベルから数百発レベルまでに圧縮していくことを想定していました。
 これと並行して、米ロ以外の核保有国(P5)、つまり、英国、フランス、中国に対しても現状以上に保有核弾頭数を増やさないことや、独自の核軍縮プランの策定を求めるという考えもあったようです。さらに「新興核保有国」であるインド、パキスタンの両国にも核戦力の現状維持を促すことも必須条件とみていました。
 そして最後の第三ステップとなります。それは未来の人類社会が構築するであろう新しい国際政治環境・システムに応じて、核保有国が追加的な核削減努力を行い、核全廃に近づけていくというものです。
 
・「核不拡散・核軍縮に関する国際委員会」、通称「川口・エバンズ委員会」
 
・包括的核実験禁止条約(CTBT)
包括的核実験禁止条約は,宇宙空間,大気圏内水中,地下を含むあらゆる空間における核兵器の実験的爆発及び他の核爆発を禁止しています。2019年末の時点で184か国が署名,168か国が批准しています。条約の発効に必要な国として特定された44か国のうち,5か国(中国,エジプト,イラン,イスラエル,米国)の未批准並びに3か国(インド,パキスタン北朝鮮)の未署名が続いているため,条約は発効していません
一方,核兵器保有国のフランス,ロシア及び英国は条約に批准しており,フランスと英国は核実験場も閉鎖しています
 
・カットオフ条約 「核兵器核分裂性物質生産禁止条約」の通称
 
分断から協調へ
37 この時、オバマは「軍事紛争の犠牲に心を痛めながら(授賞式に)来た」とその心情を率直に吐露しています。当時、オバマは米軍の最高司令官として三万人の増派を柱にした対アフガニスタン新戦略を発表したばかりでした。そうした事情を背景に、米国内外はオバマによる受賞の是非について様々な意見が飛び交っていたのです。
 演説の中で、オバマはまず、今回の受賞理由である「核なき世界」の実現について「私の外交政策の中心を占めるものだ」と言明。核兵器の拡散防止と同時に、世界規模での核軍縮を推進していく意思を改めて示しています。
 同時に、オバマは自身と同じく平和賞を受賞した米国の黒人公民権運動指導者、マーティン・ルーサー・キング牧師がその受賞演説で「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない」と語った言葉にふれながら「非暴力主義」だけで国家は指導できないという、現実的な見方も開陳して見せました。
 
38 米軍の最高指導者、言いかえれば世界で最もシビアなリアリストとしての「顔」も見せなければならないオバマは、演説の中で敢えて「時に軍事力が必要だと考えるのは、歴史や人間の不完全性、道理の限界を認識するからなのだ」と述べ、現実の国際政治が数多くの厳しい現実に向き合わなければならないことを言外ににじませています
 授賞式の後に開かれた晩餐会のスピーチでは、オバマは「持続的な平和を子どもたちの世代に残すためにすべての人々がすべきことがある」などと述べ、本来の理想主義的な決意も新たにしています。一方で、受賞演説では「戦争という手段には平和を維持するという役割もある」と言明し、「『核なき世界』を提唱する夢想家」というレッテル貼りには強く抵抗を示して見せました。アメリカ合衆国大統領という「機関」を体現する身として、おそらく、オバマはギリギリの均衡点を探っていたのでしょう
 
運命の訪問
42 オバマ大統領による広島訪問の実現について、最も貢献した人物は誰なのでしょうか――。
 そう問われれば、私は迷わず、最初にキャロライン・ケネディ駐日米大使の名前を挙げます。
(略)
 もう一人、私にとってだけでなく、日本にとってかけがえのない「援軍」となってくれたのが、ジョン・ケリー国務長官(当時)です。
(略)
 もう一人、オバマ大統領による広島訪問を実現させた功労者として、忘れてはならない人物がいます。それはほかならぬ、安倍晋三首相です。
 
53 「広島市民の多くは『謝って欲しい』とは言っていない。そうではなく、あの悲劇を繰り返してはならない。核廃絶を最大の核保有国である米国の現職大統領に訴えてほしい。未来に向けて、『核のない世界』を目指すための一歩として是非、オバマ大統領による訪問を実現させてほしい」
 
 沖縄県で発生した米軍族の男による日本人女性の死体遺棄事件。
 
58 こうした米国の意見に対して、私は水面下での外交交渉で真っ向から反論しました。その当時の思いは今も微動だにしていません。
 「資料館に展示されている貴重な資料を見て、被爆の実相にふれなければ、その後の演説も献花も意味合いは半減してしまう」
 私は何度となくそう主張し、米側を粘り強く説得しました。今、振り返ってみれば、オバマ大統領自らが資料館を訪れて、被爆の実相に触れることで「『核のない世界』を実現しなければならない」というより強いメッセージを世界に向けて発信してもらいたい、という衝動が私を強く突き動かしていたのだと思います。
 
 59 その思いが通じたのか、幸いにもオバマ大統領は最終的に資料館に足を運ぶことに同意してくれました。館内では事前に志賀賢治館長と相談して、特別に展示順を変えたいくつかの展示物をオバマ大統領に直接、見てもらいました。
 この時、私は広島出身の外務大臣として、オバマ大統領に対する「説明役」を安倍晋三首相から仰せつかっていました。ただ、誠に申し訳ないのですが、この際、オバマ大統領が、「何を見て、それらに対して、どのような反応を見せたか」といったことについては日米両国政府間の申し合わせにより、一切公開しないことになっています。ですから、ここでも詳細については残念ながら、紹介することはできません。
 約十分という短い滞在時間の中で、本当に伝えたいエッセンスを理解してもらうため、資料館のスタッフたちが特別に並べた展示品について、私は誠心誠意、英語で直接、オバマ大統領に説明しました。その際もできるだけ客観的な説明になるように細心の注意を払ったことは今でも記憶に鮮明です。
 唯一言えるのは、記念館でオバマ大統領が特に関心を寄せたのが、被爆後に闘病生活をつづけながら、わずか12歳で白血病を患い、この世を去った佐々木禎子さんがその短い間に紡いだ物語だったということです。
 
「71年前の雲一つない晴れた朝、空から死が降ってきて、世界は一変した。閃光(せんこう)と火の壁が街を破壊した。そして人類が自らを滅ぼす手段を持ったことを明示した。
 
 なぜわれわれはこの地、広島にやって来るのか。そう遠くない過去に放たれた恐ろしい力について思案するために来るのだ。10万人以上の日本人の男性、女性、子どもたち、数千人の朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために来るのだ。彼らの魂は私たちに話し掛ける。そして彼らは私たちに内面を見つめるように求め、私たちは何者なのか、何者になるかもしれないのかを見定めるよう求めるのだ。
 
だから私たちはこの場所に来る。私たちはここ、この街の真ん中に立ち、原爆投下の瞬間を想像せずにはいられない。目の当たりにしたことに混乱した子供たちの恐怖を感じずにはいられない。われわれは声なき叫びに耳を傾ける。あのひどい戦争、これまで起きた戦争、そしてこれから起きる戦争で命を落とす全ての罪のない人々のことを忘れない。単なる言葉だけでこれらの苦しみを表すことはできない。しかし、私たちには歴史を直視し、こうした苦しみを食い止めるために何をしなければならないかを自問する共通の責任がある。
 
 いつの日か、ヒバクシャの証言の声は聞けなくなるだろう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶は決して薄れさせてはならない。その記憶のおかげで、私たちは自己満足と戦うことができる。その記憶が私たちの道義的な想像力をたくましくしてくれる。その記憶が私たちに変化を促してくれる。
 
 そしてあの運命の日以来、私たちは希望を持てる選択をしてきた。米国と日本は同盟を構築しただけでなく、戦争を通して得られたものよりもはるかに多くのものを私たちにもたらした友情も築き上げた。~」
 
 
第2章 保守本流の矜持
67 「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高光の榭(うてな)に休息し、以て宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学安岡正篤命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる。
 
 「悠然としていて、何ごとがあっても動じない様子」
 
 思想や生活にも、生命を重んじ自由を尊ぶ老荘的傾向→リベラル
 
1 池田勇人 池田派 1957年 - 1965年
2 前尾繁三郎 前尾派 1965年 - 1971年
3 大平正芳 大平派 1971年 - 1980年
4 鈴木善幸 鈴木派 1980年 - 1986年
5 宮澤喜一 宮澤派 1986年 - 1998年
6 加藤紘一 加藤派 1998年 - 2001年
 
- 分裂※1 加藤派→小里派谷垣派
 
7 堀内光雄 堀内派 2001年 - 2006年
8 古賀誠※2 古賀派 2006年 - 2012年
9 岸田文雄 岸田派 2012年 -
 
広島県というルーツ
 
70 ここからはかなり、ローカルな話になりますが、池田家といえば広島の竹原市、一方の宮澤家は広島の福山市というのが地元でのイメージです。それに対して、岸田家は広島市をホームタウンとしています。つまり、わたしは被爆広島市出身の国会議員としては史上、初めての外務大臣でもあったと自負しているわけです。
 
戦後保守の源流

派閥の変容

×は断絶、()は離脱、「」は正式名称、【 】は現存する通称である[3]
 
73 1955年、日本民主党自由党が合流して一つの政党になる、いわゆる「保守合同」が実現しました。戦後・日本にとって極めて重要な出来事となった、この保守合同が行われる前に吉田茂が率いた「吉田学校」といわれる人脈が宏池会の源流なのです。
 
74 サンフランシスコ講和条約の正式名称は「日本国との平和条約」です。その意味するところは、日本国と連合国との間で第二次世界大戦終結させるために結ばれた平和条約であるということです。
 
75 全面降伏を認め、ポツダム宣言を受け入れた日本にとって、その後の国家的彼岸は平和を希求する国際社会の一員として、正式のその場に復帰することでした。そして、前述しているように1952年春、吉田首相はそのグランド・デザインに沿う形で、サンフランシスコで世界との「講和条約」を発効させることに成功したのです。
 このように日本を取り巻く国際情勢が急速に変化するのに連動して、日本国内の政治風景・事情も徐々に変わり始めていました。具体的にいえば、GHQによって戦後、日本の政界から「公職追放」の名の下、遠ざけられていた保守政治家の多くがその解除処置を受け、政界に復帰してきたのです。
 その代表格こそ、この頃、日本民主党の総裁に返り咲いていた鳩山一郎でした。ちなみに、鳩山一郎は平成時代に自民党から政権奪取に成功した民主党(当時)の初代党首、鳩山由紀夫の祖父にあたります。
 戦後間もないころ、鳩山と吉田はともに日本自由党という政党に所属していた時期がありました。日本自由党を結党する際、その中核的だった鳩山は1946年の総選挙で日本自由党が第一党の座を確保すると、内閣総理大臣就任が確実視されました。ところが、鳩山はGHQ GHQによって公職追放処分になり、やむなく、元外交官の吉田を後継総裁に指名したのです。そうした経緯を経ながらも、やがて二人は思想・信条の違いからお互いに距離を置き、袂を分かっていくのです。
 その後、鳩山ら追放解除者、あるいは「戦前保守派」と吉田ら「戦後保守派」の政治対立は、やがて誰の目にもわかるほど激しくなりました。鳩山・吉田という二人の個性的なリーダーの間に生じた個人的な確執は、その両派の対立を象徴するものといえるでしょう。
 
77 大雑把に整理すると、現在の日本政界において、吉田・自由党の流れを汲むのは私が所属する自民党宏池会であり、鳩山・日本民主党系の流れを受け継いでいるのが安倍晋三首相を輩出した自民党・清和会と言えます。
 鳩山率いる政治勢力は「戦前保守」の主流であり、当時から、自主憲法の制定と再軍備を政治的課題に掲げていました。これに対して、吉田、池田らのグループは徹底した現実主義(リアリズム)に基づき、敗戦で疲弊していた日本を再起させるため、軍備の再増強は脇において、戦争で疲弊しきっていた経済再生を国家として最優先事項に据える戦略、いわゆる「吉田ドクトリン」を構築していくのです。
 
吉田ドクトリン
78 すると米外交のトップ、ディーン・アチソン国務長官はその二か月後、想定外の外交攻勢を仕掛けてきました。ソビエト連邦の「南下政策」や、中国共産党の勢力拡大を受け、アチソン長官は側近だったジョン・フォスター・ダレス特使を通じて、一度は徹底した非武装を求めていた日本に対して、突然、「再軍備」を要請してきたのです。これに対して、吉田・池田の指定コンビは真っ向から抵抗し、米国の要求を退けました。
 「そのとき、ダレス氏は、日本の安全保障の問題について、日本が軍備を持たない状況をつづけることは、当時の国際情勢からしてとうてい許されることではないから、講和独立の要件として、日本の再軍備を主張した」
 吉田はその著書「日本を決定した百年」の中で、当時の様子をこう回想しています。当時、米側の狙いを十分悟った上で吉田はこう続けています。
 「しかし、この再軍備に私は正面から反対した。なぜなら、日本はまだ経済的に復興していなかった。それどころか、すでに述べたように、当時の日本の経済自立のための対乏生活を国民にしいなければならない困難な時期にあった。そのようなときに、軍備という非生産的なものに巨額の金を使うことは日本経済の復興を極めて遅らせたであろう」
 
リベラル派の矜持
宏池会のリアリズム
90 実はこの頃、吉田茂岸信介に対して、少なくとも十一通の書簡を送り、安保条約改定に邁進する岸首相をかげながら応援していました。
 
91 プラグマティック - 〘形動〙 (pragmatic) プラグマティズムの性質をもつさま。実用的、実利的であるさま。
 
 宮澤喜一内閣 PKO協力法
 国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律は、国際連合の国連平和維持活動(英語: Peace Keeping Operation, PKO)等に協力するために作られた日本の法律である。1992年(平成4年)6月19日に公布された。
PKOは中立性で戦争の終わりを維持改善しようとするものであり、国連からの要請を踏まえて憲法前文の精神にも沿うものだ」
 このとき、国会での論戦で宮澤は共産党の質問に対して、毅然とこう述べています。ここにも私が言う宏池会のスピリット、言いかえれば「理想と現実のギリギリの調和」を図ろうとした精神の痕跡が窺えます
 「首相に就任した際に、国際連合平和維持活動(PKO)協力法案は成立させなければいけないという強い思いがあった。海部内閣の時の湾岸戦争への対応で、日本は人的貢献をしていないと厳しく批判された。その経緯を踏まえれば、日本もPKOならできるということをはっきりさせた方がいいと考えていた」
 
92 宏池会のリアリズム
 
93 焦点となった集団的自衛権の行使について、法案は
①日本の存率をおびやかす明白な危険がある(存立危険事態)
②他に適当な手段がない
③必要最小限の実力行使にとどめる――
の三つの要件を明記し、「厳格な歯止めを定めた。極めて限定的に行使する:(安倍首相)ことを内外に示しています。この「限定的な集団的自衛権」こそ、憲法の平和主義と厳しさを増しつつある安全保障環境への対応とをギリギリのところで両立させる重要なポイントであると私は考えています。
 
憲法改正について
97 安倍首相「自衛隊憲法上、合法的な存在にする」
 
98 「自衛隊違憲かも知れないけれども、何かあれば命を張って守ってくれというのはあまりにも無責任だ」
 安倍首相はそう指摘した上で、「私たちの世代のうちに、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、違憲かもしれないなどの議論が生まれる余地をなくすべきだ」と呼びかけました。同時に「九条の平和主義の理念は未来に向けてしっかり固辞していかねばならない」とも強調し、「九条一項、二項を残しつつ、自衛隊を明文で書きこむという考え方は国民的な議論に値するだろう」と自ら手掛けた改憲案に一定の自信ものぞかせています。
 
99 この点で、安倍首相は私から見て、極めて実直な「リアリスト」であり、それは悲願とされている憲法改正問題における安倍首相の姿勢、一連の言動にも垣間見ることができます。
 
 自らの悲願である「憲法改正」問題だけではなく、安倍首相は第二次政権が発足して以来、在任中に数多くの場合で「ナショナリスト」ではなく、臨機応変な「リアリスト」としての顔を見せてきました。その実例としてここで挙げておきたいのは
①米議会での演説
②戦後70年談話
真珠湾訪問――
の三点です。
 
①米議会での演説
先の大戦への痛切な反省(Deep Remorese)」「アジア諸国民に苦しみを与えた事実から目を背けてはならない」当時の日本による「加害責任」についても正面から言明しました。
②戦後70年談話
「我が国は痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきた」「こうした歴代内閣の立場は、今後も揺るぎないものだ」と表明しています。
「歴史に謙虚でなければならない。私はこれからも謙虚に歴史の声に耳を傾けながら未来への知恵を学んでいく」
真珠湾訪問
アリゾナ記念館。日米両国の首脳が真珠湾でともに慰霊するのは、これが初めてのことでした。
オバマ「首相の訪問は和解の力を示す歴史的行動だ」と高く評価しました。
 
104 第二次安倍政権が発足した当初も私は内閣の一員になれるとは思っていませんでした。というのも、その前段となった2012年9月の自由民主党総裁選において、私は安倍首相ではなく、先述した「加藤の乱」などで親交のあった石川伸晃候補に一票を投じていたからです。
 「外務大臣。岸田さんは何でもできるから、できるよね」
 この年の瀬、組閣にあたって私に電話をかけてきた安倍首相は明るい声でこう述べ、私に日本外交の舵取り役という大任を命じました。
 
第3章 核廃絶のリアリズム
米朝電撃会談
失われた三十年
CVIDを巡る応酬
超大国・中国
ロシアの核偏重
141 INF(中距離核戦力)全廃条約は冷戦時代末期の1987年に当時のレーガン米大統領ゴルバチョフソ連共産党書記長が調印、翌年に発効しました。その骨子は射程500キロから5500キロメートルの地上配備型ミサイルの開発や配備を禁じるものです。これにより、当時の米ソ関係は大幅に緊張緩和が進み、その後の冷戦終結に大きく寄与したことでも知られています。
 INF締結の底流にあったのは、レーガンゴルバチョフという二人の政治指導者が共に「核兵器」という存在に嫌悪感を抱き、「この地球上から無くせないものか」と極秘裏に議論した事実があったことも書きました。
 
142 プーチン発言から遡ること半年前の2019年2月1日、トランプ米政権は1987年に旧ソビエト連邦(現・ロシア)と結んだINF全廃条約の破棄を正式に表明しました。その半年前の2018年10月に表明した破棄の方針を着実に実行して見せたのです。よく2日には条約締結相手であるロシアに通告、条約の履行義務を停止すると宣言するという電光石火の早業でした。
 
 「米国だけが一方的に条約に規制されてはならない」
 2016年の米大統領選挙で「米国第一主義」を掲げて当選したトランプ大統領は、この日に発表した声明でこう主張しました。同じ日、ポンぺオ米国務長官は記者会見に臨み、「ロシアは米国の安全保障上の国益を危険にさらしている。我々は適切に対応する責務がある」と大統領の言葉を補強しています。
 トランプ政権がINF全廃条約からの一方的脱退を主張した表面的な理由は、ロシアが新たに開発し、発射実験を行った巡航ミサイルの射程が500キロメートルを超えるというものでした。 皮肉なことに、この「条約違反」を2014年7月に指摘していたのは、トランプ大統領の前任であるバラク・オバマ米大統領です。
 しかし、トランプ政権の狙いは単にロシアの新型ミサイルを封じ込めるだけではありませんでした。
 「皆が入ることのできる、非常に大きく、美しい枠組みが望ましい」
 
 「現在の世界情勢では、合意に中国が加わることが必要だ」ポンぺオ
 「(軍縮枠組みに)中国を巻き込むのなら、英仏、さらに世界中が核を保有していると知っているような国々も参加させよう」プーチン
 
147 「使える核」 射程500キロメートル以下の核弾頭・ミサイルなどで、
ICBM大陸間弾道ミサイル(Inter Continental Ballistic Missile)などが「戦略的な抑止力」として「使えない核」と位置付けられているのに対して、これらは実際に戦場で「使える核」と見なされているのです。
 
変わるNPR
151 2018年2月2日、トランプ政権は向こう5年から10年間にかけて、安全保障政策の根幹をなす核戦略の指針となる「核態勢の見直し(Nuclear Posture Review=NPR)」を発表しました。その骨子はオバマ前政権が進めてきた「核軍縮戦略」を抜本的に見直し、核兵器による「総合的な抑止力」を強めることでした。
 具体的には、核兵器の使用条件を従来からの「核攻撃への抑止」と「反撃」に限定せず、通常兵器を使った攻撃にも場合によっては「核の使用」を排除しない方針に打ち出したのです。
 
154 しかし、「小型」とはいっても、そこはやはり核兵器です。米メディアなどによれば、この時、米国が開発しようとしていた「小型核」の爆発力はTNT火薬換算で20キロトン以下と見られています。ちなみに、広島に投下された原子爆弾は約15キロトンです。
 
ブッシュ・ドクトリンの影
ブッシュ・ドクトリン(Bush Doctrine)とは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を受けて登場した新戦略思想の通称。 テロリストおよび大量破壊兵器を拡散させかねない「ならず者国家」に対し、必要に応じて先制的自衛権を行い得るというもの。
 
159 「我々は脅威が現実となる前に抑止し、防御しなければならない。米国はもはや、これまでのような単に受動的な態度に依存することはできない」
 
 
核の先制不使用
核の「先制使用(first use)」とは、核兵器以外の手段で武力攻撃を加えてきた敵 対国に対し、先んじて核兵器を使用することを意味する。
他方、核の「先制不使用(no first use)」とは、核兵器を相手より先に使用することはないが、相手の核使用に対 しては報復使用の選択肢を留保するというものである。
 
174 リチャード・アーミテージ元国務副長官は「核の先制不使用(no first use)」「核の非先制攻撃(No First Strike)」という言葉の「使い分け」の重要性も指摘しています。
 アーミテージによれば、「核の非先制攻撃」とは、自らが先に核兵器の「引き金」を退くことはしないが、仮に敵国が核ミサイルを自国に対して発射した場合、そのミサイルが自国や同盟国に着弾する前に、核による報復攻撃を相手側に先んじて加える――ということです。西部劇の一シーンでよくある、ガンマン同士の早打ちの血統を思い浮かべれば、イメージしやすいかもしれません。
 
核の傘」を巡る葛藤
179 北朝鮮や中国、そしてロシアが示す「核兵器」への執着心を見れば、米国が差し出す「核の傘」を今すぐ「要らない」とはなかなか言えない。かといって、広島・長崎での惨劇を二度とくり返してはならないという被爆国・日本の国民感情に照らせれば、いずれはどこかの時点で「核の傘」との付き合い方も考えなければならない――。
 
180 オバマ大統領が一時は考えたとされる「核の先制不使用」は「核兵器のない世界」を後押しする意味で貴重な一歩ではありますが、一方で「核の傘」の強度を弱めかねない側面もあるからです。それだけ、「核の傘」の是非については戦後・日本が心と頭を痛め続け、今も悩み続けているのです。
 
 佐藤栄作首相。非核三原則「持たず、作らず、持ち込まず」
 
181 実際、1960年に両国が調印した改訂版の「日米安全保障条約」では米国が日本に対して、その防衛義務を負っていることを明記してはいますが、「核の傘」については触れていません。そして、米国が「その核戦力をもって日本を守る」という合意が両国間で正式に成立したのは、それから5年近くも経った1965年1月12日のことでした。
 「日本が核抑止を必要とするなら、米国はそれを提供する」
 この日、米国の首都・ワシントンDCにあるホワイトハウスで行われた日米首脳会談で、リンドン・ジョンソン大統領がそう明言すると、向かい合っていた佐藤栄作首相は「それを聞きたいと思っていた」と即座に応じました。その瞬間、南は九州・沖縄から北は北海道まで日本列島すべてを包む大きな「核の傘」が私たちの頭の上で開くことになったのです。
 
182 前述したように、後に「非核三原則」を提唱し、これをもってノーベル平和賞まで受賞する佐藤はこの頃、じつは、水面下で自主核武装が可能かどうかを密かに国内で研究させていました。実兄である岸信介譲りの保守・反共思想に基づき、日本の更なる「自立」を目指そうとしていた佐藤にとって、「核」は一時、その強力な「促進剤」になると映っていたのかもしれません。
 
密約外交の功罪
大平正芳「イントロダクション、イントロダクション、イントロダクション・・・・・・」
大平正芳 理念と外交(増補版)」
 
184 いわゆる「日米核密約」とは1960年1月6日、当時の藤山愛一郎外相とダグラス・マッカーサー二世駐米日本大使が日米安全保障条約改定に合わせて著名した「討議記録」のことを指します。このなかで、日米両国は核兵器を搭載した潜水艦や空母など米軍艦船による日本への寄港や日本領海の通過について、日米政府間で「事前協議」が必要とされている「核持ち込み」には当たらないと確認している、とされていました
 それが事実だとすれば、後に佐藤栄作ノーベル平和賞を受賞した理由となった「非核三原則」にも抵触しかねません。もちろん、当時はまだ、「非核三原則」という国是は定まっていませんでしたが、広島・長崎の惨禍を経て、日本国民が抱いていた核に対するネガティブな感情を考えれば、日本政府が水面下で米核戦力を日本に「持ち込む」ことを黙認していたことは国民の目を欺くことであり、それだけで大きな政治スキャンダルにもなりうる重大事でした。
 
186 この時、米側は一時的な寄港や、領海通過などは「事前協議の対象ではない」と解釈し、日本側は後に定める「非核三原則」における三番目の項目である「核を日本に持ち込ませない」という観点から、これを容認できないという立場を堅持していました
 最終的な妥協策として、日本は「事前協議がない限り、米国は核兵器を日本に持ち込んでいない」という独自の「虚構」を創り上げ、その上で「暗黙の了解」を米側に与えていた、というが今では日米関係に詳しい両国の専門家の間では通説となっています。
 
 「核弾頭を持った船は、日本に寄港はしてもらわないということを常に言っております」池田勇人
 
 ライシャワー大使は「大平外相は『討議記録』の存在も解釈も知らなかった」と指摘したうえで、自分が「核持ち込み(イントロダクション)に「核積載艦船の寄港は含まれない」と説明すると、大平は「日本はこれまで、この言葉をこのような限定された意味で使ったことはなかったが、今後はそうする」と応じた、とされています。
 
 核兵器を「持ち込む」とは「日本領土への配備・貯蔵」との解釈を提示しました。これに対して、大平外相も同意したとされています。
 ライシャワー大使は席上、「(日本に)事前協議なしに核兵器を持ち込む(イントロデュース)ことをしないし、持ち込んだこともない」と説明する一方で「イントロデュース」の意味については「日本の領土への配備・貯蔵」を意味するものであり、日本語の「持ち込む」はこれにあたる、との解釈を開陳し、大平に理解を求めたということです。
 その説明を受けて、大平は「核搭載艦の日本への寄港・通過は(イントロデュースに)含まれない」と確認したとされています。
 
「日本核武装論」の虚実
793 春原剛「核がなくならない7つの理由」
 
脱・密約の時代
谷垣禎一「日本再興」という報告書。全49ページ
 
201 宏池会の重鎮でもあった谷垣総裁の下、自民党がこの政策提言を発表した背景の一つには、当時政権・与党の座にあった民主党政権による「密約調査」の公約がありました。ここからはその経緯と概要に若干、触れておこうと思います。
2009年9月16日、民主党(当時)・鳩山由紀夫政権で外務大臣に就任した岡田克也は、1960年の日米安全保障条約改定時、米国による日本への核持ち込みを認めていたとされる「密約問題」などについて藪中三十二外務次官(当時)に同年11月末をメドに調査報告を報告するよう、大臣命令を発しました。
 
①1960年1月の日米安全保障条約改定時の核持ち込みに関する密約
朝鮮半島有事の際の戦闘作戦行動に関する密約
③1972年の沖縄返還時の有事の際の核持ち込みに関する密約
④1972年の沖縄返還時の原状回復補償費の肩代わりに関する密約--
の四つです。
 
204 しかしながら、その大平の苦悩は実のところ、1980年代後半の冷戦終結と共に完全に解消されています。言い換えれば、冷戦終結以来、過去30年近くにわたって、日本は「密約の影」におびえることなく、「非核三原則」を名実共にしっかりと堅持していたのです。
 1991年9月27日、当時のジョージ・H・W・ブッシュ大統領が冷戦終結を踏まえ、「核巡航ミサイル(SLCM)を含め、艦艇と攻撃潜水艦からすべての戦術核を撤去する」と宣言しました。それ以降、近年の核戦略に基づいて米国が日本防衛のために提供している「核の傘」の主体は、太平洋の深海に潜んでいる原子力潜水艦から発射される「潜水艦発射弾道ミサイルSLBM)」になっています。
 つまり、それ以降、21世紀の今日にいたるまで、米国の戦術核兵器を搭載した米軍艦船が日本に寄港する、あるいは了解を無断で通過することは現実としてありえないのです。ですから、自民党による「政策提言」も現時点では実際の政治の現場で大きな意味を持つことはありませんでした。
 
爆弾発言の底流
206 「(日栄安全保障条約の破棄)は全く考えていない。不公平な条約だと言っているだけだ。私は彼(安倍晋三首相)にそれを、この6か月間、言ってきた」
 2016年の米大統領選以来、断続的に続く「トランプ発言」の理屈はある意味、単純なものです。まず、トランプ大統領は「もし、日本が攻撃されたら、米国は全力で戦う。戦闘に入らざるを得ず、日本のために戦うことを約束している」と指摘します。そのうえで「もし、米国が攻撃されても、日本はそうする必要はない」と指摘し、日米安保条約の性格上、日本側に「米国防衛」の義務がないことをあげつらうのです。
 
207 もちろん、日本は国民の幅広い理解と支援を背景にして、総勢5万人を超える在日米軍に基地を提供しています。その上、基地労働者の給料や、その基地の維持経費など必要な駐留経費を日本国民の税金で賄っています。
 米国防衛相によれば、2018年9月末時点の在日米軍は約5万4000人で、2019年度予算では駐留経費は3888億円と見込んでいました。このうち、基地の従業員人件費など本来、米側が支払うべき費用を日本が負担する「思いやり予算(Host Nation Support=HNS)」は1603億円とされています。
 日米同盟体制の要点を単純に表現すれば、「世界最強の軍隊」と「世界随一の核戦力」を保有する米国が専ら「矛」の役割を任じ、戦後以来、専守防衛を貫いてきた日本が「盾」の任務に徹するという、ユニークな相互支援のスキームということになります。その点において、戦後、吉田茂が残した「制度設計」は今も基本的に変わっていないのです。
 その設計思想に沿って、現代の日米安保条約でも第五条では日本が攻撃を受けた場合、米国に日本防衛の義務を課しています。一方、第六条は日本が米国に基地や施設を提供する義務も定めているのです。
 ただ、そのユニークさゆえ、日米力国ではこの同盟関係を「双務的ではない」とか、「片務的であり、純粋な意味で同盟とは言えない」などとする声も少なからずあったのは否定できません。
 第二章で述べたように、安倍政権において成立させた「平和安全法制」において、現行の平和憲法の下で日本が「集団的自衛権」を限定的に行使できる環境を整えた背景には、こうした日米同盟に対する的外れな批判を和らげたいという思いもありました
 それだけに一連の「トランプ発言」に見られるような、一方的な物言いは極めて危険なことだと私は思います。今まで説明してきた通り、米国が「日本の利益」のためだけに日米同盟を維持しているわけではないからです
 
208 何ごともそうですが、一方的な決めつけ、議論は物事の本質を見誤ることになりかねません。繰り返しになりますが、日米同盟体制は日本だけでなく、米国の「アジア戦略」にとっても大きなメリットをもたらすものです。
 仮に、米国がすべての在日米軍経費を自前で負担するとなれば、そのコストはゆうに2倍以上に膨れ上がることでしょう。それはただちに米国の国防予算を逼迫させ、いずれはアジア・太平洋地域から米軍が部分的にせよ、撤収せざるを得なくなるかもしれません。それはすなわち、世界における米国の影響力が低下することを意味するのです。
 
210 米外交誌、「フォーリン・ポリシー(電子版)」は同日、2019年7月当時、まだトランプ大統領の側近だったジョン・ボルトン大統領補佐官(国家安全保障担当)が来日した際、在日米軍駐留経費の日本負担額を現行の4倍に増やすよう、求めていた、と報じました。~同誌によれば、ボルトン補佐官は日本の次に訪れた韓国に対して、米軍駐留経費の負担額を5倍に増額することも要求したとされています。
 この時点で在日米軍駐留経費の日本負担額は2019年度予算の歳出ベースで1974億円と見込まれていました。この4倍ということはざっと計算して、じつに8000億円前後の負担を日本に強いることになります。
 在日米軍駐留経費の負担に関する日米韓の特別協定は2021年3月に期限切れを迎えます。このため当初、日本政府内にはトランプ大統領の態度について、2020年春から本格的な第2ラウンド交渉が始まる「日米貿易協定」を有利に進めるための高等戦術ではないか、という見方もありました。
 しかし、現在では「思いより予算」の増額を求めるトランプ政権お本気度を疑う声は次第に少なくなっているようにも思えます。同じような要求を韓国や欧州の同盟諸国に対しても、トランプ大統領は執拗に繰り返していることが、そうした受け止め方を後押ししているのです。
 
211 これはあくまでも「頭の体操」的な話になりますが、これまでの駐留経費負担額は米軍が提供する「通常戦力」に必要なコストを分母として計算したものでした。仮に「核の傘」の経費負担までを視野に入れた場合、その母数は劇的に変わる事は間違いなく、日本の負担額も大幅に増えることでしょう。
 そうなれば、ボルトン全補佐官らが言い残したとされる「8000億円」という金額ですら、あながち「非現実的」という一言では片づけられなくなってしまいます。もちろん、それを日本がそのまま鵜呑みにして受け入れることなどあり得ません。
 
 
第5章 岸田イニシアティブ
核兵器禁止条約を巡る逡巡
2016年10月28日(日本時間)、国連総会第一委員会(軍縮)において、多国間の核武装撤廃交渉を来年から開始する決議案“Taking forward multilateral nuclear disarmament negotiations”(document A/C.1/71/L.41)が、賛成123、反対38、棄権16で可決された。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、日本は反対票を投じ、北朝鮮は賛成、中国は棄権した
 
2017年7月7日に国連本部で開催中の核兵器禁止条約交渉会議にて賛成122票、反対1票(オランダ)、棄権1票(シンガポール)の賛成多数により採択された。
核兵器保有国(NTP上のアメリカ合衆国・中国・イギリス・フランス・ロシア、およびインド・パキスタン朝鮮民主主義人民共和国)は不参加。なお北朝鮮は前年の決議からこの条約の採択の間に不参加に転換した[22]。
アメリカ軍の核の傘の下にあるカナダやドイツなどNATO加盟国(オランダのみ参加し反対票)や、アメリカ合衆国との軍事同盟を結ぶ日本・オーストラリア・大韓民国なども不参加
MNNA諸国の多く、東南アジア諸国連合(棄権のシンガポール以外)、ヨーロッパではNATO非加盟のスウェーデン・スイス・オーストリアアイルランドなどは賛成した
 
224 いつかは必ず訪れる、次なるピークに狙いを定めて「最小限ポイント」を定める。その時、唯一の被爆国として日本が手にしている「伝家の宝刀」とも呼ぶべき、「道義的権威(Moral Authority)」を最大限に活用して、保有国と非保有国の仲を取り持ち、国際的な核軍縮の道を拓いていく――それが私の核廃絶に向けた長期戦力なのです。
 
NPTの守護神として
核不拡散条約」NPTは、正式名称を「核兵器の不拡散に関する条約」(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)と言い、核兵器保有国の増加を防ぐこと(核兵器の拡散を防ぐこと)を主な目的とした条約です。
 
234 先述したように「核不拡散条約」について、日本は参加を見送るという政治決断をしました。その姿勢について、「核廃絶に逆行する」などと国内外から厳しい批判を受けたことは記憶に新しいと思います。
 しかし、じつはこの決断の背景には、核保有国と非保有国の対立がこれ以上、激化した場合、NPT体制そのものが崩壊してしまうのではないか、という危惧もあったのです。
 仮に、唯一の被爆国である日本が非保有国の先頭に立って、核保有国を批判するような印象を持たれたとすれば、それは「核の傘」を提供する米国の不信感を招くばかりでなく、他の核保有国の反発も誘発し、結局は核保有国と非保有国の溝を深めるだけで、その「橋渡し役」すらできなくなるという結論に達したのです
 
日米拡大抑止協議
李下の冠
《スモモの木の下で冠をかぶりなおそうとして手を上げると、実を盗むのかと疑われるから、そこでは直すべきではないという意の、古楽府「君子行」から》
 
※日本が保有するプルトニウムは約47トン。軍事用も含めた全世界のプルトニウム約500トンの10%近くを占め、核兵器保有国以外では圧倒的に多い。うち約10トンは国内の原発などに保管され、残り37トンは再処理を頼んだイギリスとフランスにある。
 
246 旧協議が発効した1988年当時、日本のプルトニウム保有量はわずかなものでした。さらに、次世代型の原子炉と期待された高速減速炉「もんじゅ」の建設も進行していたため、日本のプルトニウム利用計画は現在よりも現実味がありました。
 しかし、「もんじゅ」が事故を起こした1995年から雲行きが怪しくなり、以降、2016年までの21年間で、日本のプルトニウム保有量は約3倍に膨れ上がってしまいました。この結果、日本が国内外に保有するプルトニウムの総量は各弾頭6000発にあたる約47トンを超えています。
 こうした日本の実情に水面下で最も懸念を示していたのが米国でした。もっとも、この間にホワイトハウスの主は、バラク・オバマ大統領からドナルド・トランプ大統領に替わっており、第3章で論じた通り、トランプ政権は「使える核」を重視した新たな核戦力も打ち出しています。そうしたこともあって、原子力協定の自動延長については米側も表立っては大きな異論を唱えませんでした。
 それでも核拡散の防止戦略を自らの安全保障政策の支柱の一つと位置付けている米国から見て、各弾頭6000発分にも達する日本のプルトニウム保有量は看過できるものではありませんでした。このため、すでに述べているように日米間の原子力協定を自動延長する「条件」として、非核保有国としては異例のプルトニウム保有量となった日本に自発的なプルトニウム削減プランの策定を求めていたのです。
 
 確かに、日本は一貫して「余剰プルトニウムは持たない」という立場を示してきましたが、残念ながら現状はそれを証明するどころか、否定しているようでもあります。今も核保有に野心を燃やしている北朝鮮がこうした実情を「ダブル・スタンダードだ」と突発的に非難したり、イランが「我々は『ジャパン・モデル』を目指している」と公言する理由もここにあるのです。
 イランが時折、口にする「ジャパン・モデル」についてはわたし自身、外務大時代にイランの代表団から何度か直接、聞いたこともあります。その都度、私は正しい「ジャパン・モデル」の在り方について、「非核の誓いを守り、NPTの参加国として核廃絶に取り組んでいることが肝要なのだ」と説くことを忘れませんでした。
 
248 その「意思」を内外に広く示すため、日本はエネルギー政策についても大きな政策転換を決断しています。2018年7月3日、日米原子力協定の自動延長に先駆ける形で、4年ぶりに策定し直した「エネルギー基本計画」閣議決定がそれです。
  この決定における最大の目玉は、原子力発電所で定期的に排出される「使用済み核燃料」を再処理する際に生み出されるプルトニウムについて、「核保有量の削減に取り組む」と初めて明記したことでした
 実際、日本のプルトニウム保有量は、先述したように2011年3月11日の東日本大震災以降、増え続けています。大震災に伴う東京電力福島第一原子力発電所での事故を受け、原発の再稼働が全般的に停滞したことで、プルトニウムは再利用されることなく貯まり続けているのです。
 核軍縮などに関する国際的な非営利団体組織「国際核物質専門家パネル(IPFM)」によれば、世界主要各国のプルトニウム保有量(民生用のみ)は英国の約116トンを筆頭にフランスの約68トン、露西亜の約61トンに続き、日本は世界第4位の水準となっています。これに対して、米国は約8トンであり、中国は小数点以下のレベルにとどまっています。
 日本が国策としている「核燃料サイクル」に則れば、プルトニウムの削減には原子力発電所での活用がカギになります。余剰プルトニウムMOX燃料として原発で燃やして発電する「プルサーマル発電」で減らすためです
 しかし、東日本大震災以降、「高止まり」を続けている日本の余剰プルトニウムの削減にはなお、決定的な解決策が見出せていません。例えば、かつてプルトニウム利用の主軸になると期待された「もんじゅ」は前述したように1995年に事故を起こして以来、ほとんど稼働できないまま2016年に廃炉が決まっています。それに加えて、福島県での原発事故以降、全国の原発はほとんどが稼働を停止しているため、プルトニウムを燃やすプルサーマル事業も計画通りには進んでいないのです。

 
 こうした実情を受けて、政府が策定する「エネルギー基本計画」に沿って具体策などを示す役割を持つ原子力委員会は2018年7月31日、余剰プルトニウムの削減に向けた新しい指針をまとめました。15年ぶりに改定した指針の中で、同委員会はまず、プルトニウムについて「保有量を減少させる」と削減方針を初めて明記しました。
 その具体策としては、原発で消費するメドが立たないプルトニウムについて「2021年完成予定の青森県六ケ所村の再処理施設では製造しない」という方針を盛り込みました。青森県六ケ所村の使用済み燃料再処理工場では最大、年間4トンのプルトニウムが排出される見込みでしたから、今後の増量には一定の歯止めをかけたことになります。
 同時に、プルトニウムを燃料に混ぜて原発で消費するプルサーマル事業の推進に向け、電力会社間の連携を促すことも打ち出しています。日本の電力業界はプルサーマル事業を16基から18基の原子力発電所で実施する計画を立てていますが、現状は4基が稼働しているにすぎません。因みに、一機あたりで年間に消費するプルトニウムの総量は0.4トンにとどまります。

 
 
核兵器のない世界」に向けて
①NPT(核不拡散条約)体制の強化とCTBT(包括的核実験禁止条約)、カットオフ条約(核兵器核分裂性物質生産禁止条約)の推進
②余剰プルトニウムの大幅削減と新しい「核の平和利用」の推進
258 日本経済の成長や国民生活の維持という観点からすれば、いきなり「脱・原発」というスローガンを打ち出すことは現実的ではない一方、長期的なスパンで将来的には再生エネルギーの比率をさまざまな技術革新で高めながら、原発への依存比率を段階的に下げていくという長期的な議論は避けて通れません。
③『日米拡大抑止協議』の政治レベルへの格上げ
④「核兵器のない世界のための国際賢人会議」の創立
⑤「核の平和利用のための国際会議」の新設
 
ローマ教皇のメッセージ
 
おわりに
あとがき