読んだ。 #寝ながら学べる構造主義 #内田樹

読んだ。 #寝ながら学べる構造主義 #内田樹
 
 
<1.先人はこうして「地ならし」した――構造主義前史>
1.私たちは偏見の時代を生きている→ポスト構造主義
構造主義の発想法に「みんなが飽きる」時代が来るだろう
A 私たちはいまだ「構造主義が常識である時代」にとどまっている。(19頁)
A-2 私たちは「偏見の時代を生きている」という構造主義の発想法から、逃れることはできない。(19頁)
B みんなが「マルクス主義的にしゃべるのに飽きた」ので、マルクス主義が常識の時代は終わった。(21頁)
 
・私達はつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている。
  イデオロギーが支配的であるというのは、以下のようなこと。例えばマルクス主義が支配的なイデオロギーであった時代」というのはみんながマルクスの本を読んでいた時代のことではなく、マルクス主義思想や運動についての批判的記述が、もっぱらマルクス主義の用語や概念を使ってしか試みられないことを誰も「変だ」と思わなかった時代のことマルクス主義の場合には、「もうその言葉づかい、止めません?」ということがなんとなく集団的な了解に達したときに「支配的なイデオロギー」であることをやめた。構造主義に関しても同じようなことが起こるのではないだろうか。
 
構造主義特有の用語、「システム」、「差異」、「記号」、「効果」などの言葉に、「みんなが飽きる」時代が来るだろう。
 
2.アメリカ人の眼、アフガン人の眼
D アメリカ人の立場とアフガン人の立場の「違い」について語りうるのは、比較的最近、ほんのこの20年の常識である。(22頁)
D-2 アルジェリア戦争当時、フランスとアルジェリアの言い分について、「どちらにも一理ある」と言ったのはアルベール・カミュのみで孤立無援だった。(24頁)
 
世界の見え方は、視点が違えば違う。だから、ある視点にとどまったままで「私には、他の人よりも正しく世界が見えている」と主張することは論理的には基礎づけられない。私たちはいまではそう考えるようになっている。このような考え方の批評的な有効性を私たちに教えてくれたのは構造主義であり、それが「常識」に登録されたのは40年ほど前、1960年代のこと
 
E 構造主義のポイント(25頁)
①自分の属する社会集団が受けいれたものだけを、選択的に「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられている」。
②私たちが、判断や行動の「自律的な主体」であるのは、限定的である。自由や自律性は、限定的。
 
 
3.マルクスの地動説的人間観→ヘーゲルマルクス、自己意識、労働
(3)マルクス:主体性の起源は、「存在」にでなく、「行動」のうちにある。生産=労働のネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。
F マルクスは、帰属階級によって違ってくる「ものの見え方」を、階級意識と呼ぶ。
F-2 普遍的人間性、「人間」一般は、ない。(27頁)
F-3 人間の個別性は、「何ごとをなすか」(「行動すること」)で決まる。「存在すること」、「静止していること」としての普遍的人間性など、ない。(27頁)あるとしても「存在すること、行動しないこと」=「現状肯定」を正当化するイデオロギーである。(28頁)
 
G これを、マルクスは、ヘーゲルから受け継ぐ。ヘーゲルは、「自分のありのままにある」ことへの満足を否定「命がけの跳躍」を試み「自分がそうありたいと願うものになること」、これこそが人間を動物から区別すると、ヘーゲルは述べる。(28頁)
G-2 人間は「彼によって創造された世界の中で、自己自身を直観する」。(マルクス
G-3 「人間が人間として客観的に実現されるのは、(※「作り出す」活動としての)労働によって、ただ労働によってだけである」。(ヘーゲル)(29頁)
G-4 人間が「(※動物のような)自然的存在者以上のもの」であるのは、「人為的対象を作り出した後」だけ。(ヘーゲル)(29頁)
G-5 「動物は、単に直接的な肉体的欲求に支配されて生産するだけ」である。(マルクス)(28頁)
 
・人間は食べたり飲んだり眠ったりという直接的な生理的欲求を超えて、狩猟し、採集し、栽培し、交易し、産業を興し、階級を生み出し、国家を創建します。それは人間が動物的な意味で生きてゆくためにはもとより不要のものです。人間がそのような「もの」を作り出すのは、「作られたもの」が人間に向かって、自分が「何者であるか」を教えてくれるからです。人間は「彼によって創造された世界の中で、自己自身を直観する」のです。
 
H そして「私を直観する」のは、他者とのかかわりとしての生産=労働の中に身を投じることによって、「他者の視線」になって「自己」を鳥瞰できることによってである。(30-31頁)
 
I 主体性の起源は、主体の「存在」にでなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義の根本にある。ヘーゲルマルクスから20世紀の思考が継承したもの。(32頁)
I-2 私が「何ものであるか」は、生産=労働のネットワークのどの地点にいるかで決まる。(ヘーゲルマルクス)(31頁)
I-3 ネットワークの中心に主権的・自己決定的な主体がいるのでない。ネットワークの「効果」として、様々のリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。この構造主義の考え方は、「脱-中心化」、「非-中心化」と呼ばれる。(32頁)
 
ヘーゲルのいう「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。人間は「他者の視線」になって「自己」を振り返ることができますが、動物は「私の視点」から出ることがないので、ついに「自己」を対象的に直観することができないのです
 
4.フロイトが見つけた「無意識の部屋」→無意識抑圧
(4)フロイト:「抑圧」のメカニズム(番人)により「無意識の部屋」から「意識の部屋」に入れないものがあるという(心的過程における)構造的な「無知」(34-35頁)
J 人間は、自分が何ものであるかを熟知し、その上で自由に考え、行動、欲望しているわけでない。(39頁)
マルクス:人間主体は、自分が何ものであるかを、生産=労働関係のネットワークの中での「ふるまい」を通じて、事後的に知ることしかできない。(40頁)
フロイト人間主体は、「“自分は何か”を、意識化したがっていない(※抑圧)」という事実を、意識化できない。(40頁)
K かくて、人間的自由や主権性の範囲は、どんどん狭まっていく(①②)。(40頁)
 
5.ニーチェは「臆断の虜囚」を罵倒する→系譜学、大衆社会畜群
(5)ニーチェ:「みんなと同じ」を善とし普遍妥当と信じる畜群・「笑うべきサル」
L 人間の思考は自由でない。外在的な規範の「奴隷」にすぎない。私たちに自明なことは、時代や地域に固有の「偏見」である。これらを、ニーチェは語る。(40頁)
L-2 「われわれは、われわれ自身を理解していない。」(ニーチェ道徳の系譜』)動物と同じレベル。(41頁)
 
・技芸の伝承に際しては、『師を見るな、師が見ているものを見よ』といいうことが言われます。弟子が『師を見ている』限り、弟子の視座は『いまの自分』の位置を動きません。『いまの自分』を基準点にして、師の技芸を解釈し、模倣することに甘んじるならば、技芸は代が下るにつれて劣化し、変形する他ないでしょう。(現に多くの伝統技芸はそうやって堕落してゆきました。)
 それを防ぐためには、師その人や師の技芸ではなく、『師の視点』、『師の欲望』、『師の感動』に照準しなければなりません。師がその制作や技芸を通じて『実現しようとしていた当のもの』をただしく射程にとらえていれば、そして、自分の弟子にもその心象を受け渡せたなら、『いまの自分』から見てどれほど異他的なものであろうと、『原初の経験』は汚されることなく時代を生き抜くはずです
ギリシャ悲劇を見て感動している古代ギリシャ人の「感動の仕方」そのものに感動するという、「自乗された感動」によって、ニーチェは「いっさいの文明の背後に絶えることなく生き続け、世代や民族史がいくたびか移り変わっても永遠に不変な」(『悲劇の誕生』)ものに触れることを望んでいたのです
 
ニーチェは古典文献学者としての経験から、 古代の人々の経験をその身になって、内側から創造的に追体験することで、自己意識獲得の可能性を求めました。遠い太古の、異郷の人の身体に入り込めるような、伸びやかで限界をしらない身体的想像力に裏打ちさ れた知性のみが適切な「自己認識」を可能にするだろう、とニーチェは洞察したのです。
 
L-3 「いまの自分」から逃れ出て、想像的に措定された異他的な視座から自分を見るという「自己意識」(Cf.ヘーゲル)の欠如。(45頁)
L-4 同時代人は「臆断」の虜囚である。(45頁)19世紀ドイツのブルジョワは自らの偏見・予断を普遍的に妥当すると信じる愚物。(46頁)
M ニーチェのそれ以後の全著作→いかにして現代人はこんなにバカになったか?―系譜学的」思考。(46頁)
M-2 ニーチェ道徳の系譜:「善悪という価値判断」を人間は案出したが、人間の進展に役立ったか?(47頁)
M-3 功利主義者(ホッブズ、ロック、ベンサム)は、私権の保全のために、私権の一部を制限する善悪の規範(道徳)が成立したと言う。(47-50頁)
 
・野生の自然状態にある人間は、当然ながら、それぞれが自己保存という純粋に利己的な動機によって行動します。あらゆる手だてを尽くして利己的にふるまい自己保存に努めるのは人間の本来的な「権利」である、と功利主義者たちは考えました。(この権利は「自然権」と呼ばれます。)
しかし、自然権を万人が行使すると、「万人の万人に対する闘争」(byホッブス)が起こり、結果的に一部の強者を除いて多くの人が自己保存を実現できないという状況に陥る。これを阻止するため、社会契約に基づいて創設された国家(共同体)に自然権の一部を委ねるというのが社会契約説
 
M-4 ニーチェ大衆社会の畜群(Herde)、つまり非主体的な群衆を、憎む。畜群における自己の「偏見」の絶対化。「畜群道徳」は「みんなと同じ」、「平等」、「同情」を善とする。(50-51頁)
 
大衆社会とは成員たちが「群」をなしていて、もっぱら「隣の人と同じようにふるまう」ことを最優先的に配慮するようにして成り立つ社会のことです。群がある方向に向かうと、批判も懐疑もなしで、全員が雪崩打つように同じ方向に殺到するのが大衆社会の特徴です。
 
M-5 他人と同じことをするのが「善」「幸福」「快楽」:畜群道徳!彼らは「奴隷」的存在者である。(53頁)
N 「畜群」「奴隷」の対極に「貴族」がいる。その極限が「超人」(53-56頁)
N-2 「笑うべきサル」、忌まわしい永遠の「畜群」、「永遠の賤民」をめぐるニーチェの超人思想は、暴力的反ユダヤ主義プロパガンダに帰結する。(57頁)
 
ニーチェの思想的事績をおおいそぎで要約してみましたが、「負の遺産」である「超人思想」を含めて、私たちの時代がニーチェから受け継いたものは少なくありません。
何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。
私はこの点については、ニーチェに全面的に賛成です。
この考え方はのちに「系譜学的」思考と名づけられることになり、ミシェル・フーコーによって受け継がれ、フーコーを経由して、学術的方法として定着することになりました。
フーコーは、ついでにニーチェからその「大衆嫌い」の傾向もちゃんと継承しました。そのおかげで、現代大衆社会では「大衆なんて大嫌いだ」と大衆たちが口を揃えて言い立てるという、「ポスト大衆社会」的な光景が展開することになりました。(これはちょっとうんざりですね。)
 
 
 
 
<2.始祖登場――ソシュールと『一般言語学講義』>
1.ことばとは「ものの名前」ではない→名称目録的言語観、価値
(1)「名づけられる前からすでに、ものはあった」のではない!
A 「ことばとは『ものの名前』ではない」ソシュール)(61頁)
 
ギリシャ以来の伝統的な言語観によれば、言葉とは「ものの名前」です。その典型的な例は『聖書』に見ることができます。
神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥をかたちづくられたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。
人が、生き物につける名は、みな、それがその名となった。
こうして、人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。」(『創世記』二:十九~二十)
 
A-2 「名称目録的言語観」(「カタログ言語観」)をソシュールは否定する。(62頁)
A-3 ソシュールによれば、「名づけられる前からすでに、ものはあった」とするのは誤り!(62頁)
 
・「フランス語の『羊』(mouton)は英語の『羊』(sheep)と語義はだいたい同じである。しかしこの語の持っている意味の幅は違う。理由の一つは、調理して食卓に供された羊肉のことを英語では『羊肉』(mouton)と言って sheep とは言わないからである。sheep と mouton は意味の幅が違う。それは sheep には mouton と言う第二の項が隣接しているが、mouton にはそれがない、と言うことに由来する。(略)もし語というものがあらかじめ与えられた概念を表象するものであるならば、ある国語に存在する単語は、別の国語のうちに、それとまったく意味を同じくする対応物を見出すはずである。しかし現実はそうではない。(略)あらゆる場合において、私たちが見出すのは、概念はあらかじめ与えられているのではなく、語の持つ意味の厚みは言語システムごとに違うという事実である。(略)概念は示唆的である。つまり概念はそれが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって欠性的に定義されるのである。より厳密に言えば、ある概念の特性とは、『他の概念ではない』と言うことに他ならないのである。
「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」(『一般言語学講義』)
 
(2)概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される
B 「概念(※もの)は、それが実定的に含む内容によってではなく、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される。・・・・ある概念(※もの)の特性とは、『他の概念(※もの)ではない』ということに他ならない。」(『一般言語学講義』)(63頁)
 
(1)-2 ことばがないと、概念(※もの)がない
C「ことばがないということは、概念(※もの)がないということ。」(高島俊男『漢字と日本人』)(65頁)
 
(2)-2 語の「価値」(「意味の幅」)とは、言語システム中で、ある語と隣接する他の語との「差異」である
D 「語に含まれている意味(※もの)の厚みや奥行き」のことをソシュールは「価値」valeurと呼ぶ。いわば「意味の幅」。(65頁)
C-2 「語義」signification :“several”と「五、六」は「語義」としてはだいたい重なるが、「価値」は微妙に変わる。(65-66頁)
C-3 「価値」(「意味の幅」)は、その言語システムの中で、あることばと隣接する他のことばとの「差異」によって規定される。(66頁)
 
(1)-3 「ことば」と「もの」は同時に誕生する
C-4 ことばの「意味の幅」にぴたりと一致するものを「もの」と呼ぶなら、「ことば」と「もの」は同時に誕生する。(66頁)
D 非定型的な星々を星座に分かつように、ある観念(※もの)があらかじめ存在し、それに名前がつくのでない。名前がつくことで、ある観念(※もの)が存在するようになる。(67頁)
 
2.「肩が凝る」のは日本人だけ!?
 
3.私たちは「他人のことば」を語っている→自我中心主義プラハ学派、フッサール現象学
(2)-3 システム中の「ポジション」で事後的に決定されるもの&そのもの自体の生得的・本質的なもの
E 性質・意味・機能は、システムの中の「ポジション」で、事後的に決定される。そのもの自体の生得的・本質的な性質・意味は存在しない。(71頁)
E-2 すでに古典派経済学は、商品の「有用性」と区別し、“商品の「価値」が市場の需給関係で決まる”と述べた。(72頁)
 
・しかし、ソシュールは、私たちが言葉を用いる限り、その都度自分の属する言語共同体の価値観を承認し、強化している、ということを私たちにはっきりと知らせました
 
「自分達のこころの中にある思い」というようなものは、実は、ことばを発したあとになって、私達は自分が何を考えていたのかを知るのです。心の中で独白する場合でも変わりません。独白においてさえ、私たちは日本語の語彙を用い、日本語の文法規則に従い、日本語で使われる言語音だけを用いて「作文」しているからです。  
 私達が「心」とか「内面」とか「意識」とか名づけているものは、極論すれば、言語を運用した結果、事後的に得られた、言語記号の効果だとさえ言えるかもしれません
 私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば「私」そのものでははありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私がさきほど読んだ本の一部です。(略)
「私が語っている時に私の中で語っているもの」は、そのかなりの部分が「他人のことば」であるとみなして大過ありません。
「私のアイデンティティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られるが、「私が語ったことば」さえ、それを構成するファクターの多くが「外部から到来したもの」です。
 
(1)-4 私の中で語っているのは、私ではなく、ことばそのものが語る
F 「心の中にある思い」は、ことばで「表現される」と同時に生じた。心の中で独白する場合も同様。(73-74頁)
F-2 「心」「内面」「意識」は言語運用によって事後的に得られたもの。(73頁)
《評者の感想》:これは、内容の分節化のことを言っている。分節化されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。
 
G 詩人の「詩神」、ソクラテスの「ダイモン」!「ことばを語っているときに、私の中で語っているのは私ではない」。ことばそのものが語る。これこそ、言語運用の本質である!(73頁)
 
(1)-5 「私が語る」内容は、「他人のことば」の受け売り
H さらに言えば、私が確信をもってことばで語るとき、その意見は、「私が誰かから聞かされたこと」(私が習得した言語規則、語彙、聞きなれた言い回し、読んだ本の一部など)である。(73頁)
H-2 「私が語る」とき、語られている内容は「他人のことば」の受け売り。
H-3 純正オリジナルの自分の意見は、普通、ぐるぐる循環し、矛盾し、主語が途中から変わり、何を言っているのか分からなくなったりする。(74頁)
 
(3) 「自我中心主義」批判
I 「私のアイデンティ」は「私が語ったことば」を通じて事後的に知られる。そして、語られている内容さえ「他人のことば」の受け売り。(75頁)
I-2 「私のアイデンティ」、「自分の心の中にある思い」などあるのか?(75頁)
 
J 「自我中心主義」は、致命的にダメージを与えられる。(75頁)
①「自我」「コギト」「意識」が世界経験の中枢?そうではない!
②すべてが「私」という主体を中心に回っている?そうではない!
③経験とは「私」が外部に出かけ、いろいろなデータを取り集めること?そうではない!
④表現とは「私」が自分の内部に蔵した「思い」をあれこれの媒体を経由して表出すること?そうではない!
 
《評者の感想》
①分節されない「心」「内面」「意識」は、言語運用以前にも存在する。
①-2 1次世界一般における「他我」の出現or構成とともに、1次世界は分裂し一方で客観的物理世界、他方で「心」「内面」「意識」が、必然的に出現or構成されざるを得ない。現象学的知見における「他我」構成の問題領域を参照。
①-3 世界=有は出現する。しかも構造化されて出現する。それが超越論的主観性と呼ばれる世界=有の出現である。
②「心」「内面」「意識」には、一定の働き方がある。現象学がそれを本質的形式として叙述する。
「私のアイデンティ」とは、気分・欲望・衝動・希望・情動・感情・情緒等である
③-2 それらは、連続的時間的出現、蓄積、分節化=類型化(ことばによるもの、注視・意図など能動性によるもの、あるいは受動的なもの)、混乱、相互作用、習慣化=構造化等をこうむる全体として、存在する。
 
 
 
(4)構造主義の前史、第1、第2、第3世代(76-77頁)
K 構造主義前史:マルクス(システムの結び目としての人間)、フロイト(人間主体への構造的疑い)、ニーチェ(自由などウソ、外在的規範の奴隷・畜群としての人間)
K-2 第1世代ソシュール(①ことばがないと、概念(※もの)がない、②概念(※もの)は、システム内の他の項との関係によって、欠性的に定義される、③「自我中心主義」批判)
K-3 第2世代:1920-30年代の東欧・ロシアの「ニューウェーブ」。プラハ学派(ローマン・ヤコブソンら)そしてロシア・フォルマリスム、未来派フッサール現象学との異種配合。プラハ学派が「構造主義」と命名
K-4 第3世代:1940-60年代フランス。「構造主義の4銃士」。
(1)文化人類学クロード・レヴィ=ストロース(1908-2009):(a)親族関係は2ビット、(b)人間の本性としての贈与
(2)精神分析ジャック・ラカン(1901-81):(a)幼児と鏡、(b)ことばの贈与と嘉納による「共生」
(3)記号論ロラン・バルト(1915-80):(a)「零度の記号」or無垢のエクリチュール(ことばづかい)、(b)作者の死
(4)社会史のミシェル・フーコ―(1926-84):(a)系譜学的思考、 (b)社会制度としての身体
 
 
 
 
<3.「四銃士」活躍す その1――フーコーと系譜学的思考>
1.歴史は「いま・ここ・私」に向かってはいない→人間主義、生成、零度、社会史
(1)世界は別のものになる無限の可能性に満たされている&歴史を「生成の現場」にまで遡行する:『知の考古学』
A フーコーの仕事は、「今あるもの」が、「昔からあったもの」だとの思い込みを粉砕すること。『監獄の誕生』、『狂気の歴史』、『知の考古学』。(79頁)
A-2 制度や意味が「生成した」現場にさかのぼる。(80頁)
A-3 Cf. 「生成した瞬間の現場」=「零度」(ロラン・バルト)。(80頁)
A-4 構造主義とは、人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)について、「零度の探求」である。(80頁)
B フーコー人間主義進歩史観に異を唱える。「いま・ここ・私」が歴史の進化の最高到達点とする「人間主義」(一種の「自我中心主義」)批判。(80-81頁)
B-2 進化でなく退化でも、いずれにせよ「歴史の直線的推移」は幻想。(81-82頁)
 
・たしかに、よく考えてみると、自分が「誰の子孫であるか」ということは、実はずいぶん恣意的な決定です。というのは、私には四人の祖父母がいるわけなのに(内田、河合の他に服部、榎本の四家があります)、私はそれら四人の祖父母のうち三人を除去し、一人(内田家の祖父)だけを父祖に指名しているからです。その祖父にも、当然母親がいるわけですが、排除された曾祖母については、もう私はその旧姓さえも知りません。
 
C 世界は私たちが知っているものとは別のものになる無限の可能性に満たされている。(85頁)
C-2 「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」(86頁)
 
2.狂気を査定するのは誰?→理性
(2)狂気の「生成の現場」:『狂気の歴史
D 「歴史から排除され、理性から忘れ去られたもの――狂気――」(87頁)
D-2 正気と狂気の分離は17-18世紀の近代的都市・家族・国家の成立とともに始まった。(87頁)
D-3 近代以前においては、狂人が「人間的秩序」の内部に、正当な構成員として受容されていた。西欧中世では、信仰の重要性を証しする「生きた教訓」としての狂人が教化的機能を担った。(88頁)また「別世界から到来するもの」として歓待された。(90頁)
D-4 日本では「ものぐるひ」は、世俗と霊界を結ぶ「リンク」。(88-89頁)
 
17世紀ヨーロッパをフーコーは「大監禁時代」と呼んでいます。それはこの時代になって、近代社会は「人間」になじまないすべてのもの——精神病者、奇形、浮浪者、失業者、乞食、貧民などさまざまな「非標準的な個体」——を強制的に排除、隔離するようになるからです。標準化は時代が下るにつれてますます過激化し、近代ヨーロッパの「監禁施設」には、自由思想家、性的倒錯者、無神論者、呪術師からついには浪費家にいたるまで、およそ「標準から逸脱する」あらゆるタイプの人間たちが収監されるようになります
 
E 17世紀になって狂人は非神聖化される。(90頁)
E-2 「理性」による狂気の排除。(91頁)Cf. 理性の時代における「魔術からの解放」(M.ウェーバー
E-3 司法官による収監の対象から、医師による治療の対象として、狂人を隔離。「知と権力」の結託。(91頁)
 
3.身体も一個の社会制度である→標準化
(3)一個の社会制度としての身体or「意味によって編まれた身体」(〈例①〉・・・・〈例⑤〉):『監獄の誕生』
F 知と権力は、近代において人間の「標準化」をめざす。その一つが、「身体」の標準化。
F-2 身体は、「意味によって編まれた」一個の社会制度である。「意味によって編まれた身体」!(92頁)
F-3 〈例①〉「肩凝り」は日本語話者に固有である。(93頁)
F-4 〈例②〉日本の伝統的な歩行法は「ナンバ」(右足前・右半身前、左足前・左半身前)で深田耕作に適す。明治維新後、軍隊行進のヨーロッパ化のため、学校教育で「ナンバ」廃止。(93-94頁)
 
4.王には二つの身体がある→政治的身体
(4)〈例③〉「国王二体論」:王は自然的身体と「政治的身体」を持つ
G 〈例③〉前近代の身体刑が残忍だったのは、刑罰が目指していたのが、「自然的身体」でなく「政治的身体」だったため。(96頁)
G-2 絶対王政期の「国王二体論」。王は自然的身体と「政治的身体」を持つ。王の政治的身体は政治組織・統治機構からなり、人民を指導し公共の福利を図る。(これもまた「意味によって編まれた身体」である。)(96頁)
G-3 大逆罪を犯した者が毀損した「王の政治的身体」の対極に、不死にして不壊の「弑逆者の政治的身体」を想定し、大掛かりな身体刑でそれを破壊するそれとともに国王の「政治的身体」の不可侵性を奉祝する。いわば「負の戴冠式。(97-98頁)
 
大逆罪の身体刑は、罪人の「恐るべき政治的身体」を破壊することを目指していたからこそ、自然的身体を破壊するために必要な暴力の何倍もの暴力を動員し、かつ華やかな祝祭性のうちに執行されることになりました
 
H 〈例④〉騎士や殉教者が、戦場や火刑台で、恐るべき身体的苦痛を、ときに強烈な宗教的法悦や陶酔感とともに経験した。(98頁)
H-2 〈例⑤〉「フランス革命大義」について徹底的イデオロギー教育をうけた兵士は、「苦痛を感じない身体」を持つ兵士となりうる。手足切断の手術を受けてすぐに戦場に戻った兵士!(99頁)
 
・身体的苦痛のような物理的・生理的経験でさえ、歴史的あるいは文化的な条件づけによてまったく別のものとなります。何を苦痛と感じ、何を苦痛と感じないか、という「苦痛の閾値」はその人がどういう文化的ネットワークの中に位置しているかによって変化します
 
5.国家は身体を操作する
(5)〈例⑥〉国家は身体を操作する:身体の政治技術
I 〈例⑥〉-1 フランス近代における兵士の造型(100頁)
I-2 〈例⑥〉-2 山県有朋民兵の身体を「練習数月」で軍事的に「標準化」し、中央権力にに服さない士族兵の身体を「統御」する。西南戦争を勝利させた軍事的身体加工の成功。(101頁)
I-3 〈例⑥〉-3 森有礼の「兵式体操」の学校教育への導入(M19)。(102頁)
J〈例⑥〉-4 身体の政治技術が、「監視され、訓練され、矯正される人々」に適用される。「狂人、子ども、生徒、植民地先住民、生産装置に縛りつけられる人々」!(103頁)
J-2 身体の支配を通じて、精神を支配する。統御されていることを感知しない。(103頁)
J-3 〈例⑥〉-5 1958年から文部省が導入した「体育坐り」or「三角坐り」。(104-5頁)
 
・ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。
 
6.人はなぜ性について語りたがるのか→言説、権力=知、ストック趨向性、自己言及
(6)「カタログ化し一覧的に位置づける」ものとしての「権力=知」が産みだす「標準化の圧力」:『性の歴史』
 
フーコーのこの疑問には、私も深い共感を覚えます。
どうして、私たちはこれほど熱心に性的な快楽や倒錯や奇習や情熱や禁忌や神秘について語るのでしょう。
私自身は性を話題にする習慣を持たない人間なので、小説家や社会学者やフェミニストや週刊誌が、性にかかわる「新しい」言説を絶えず生産し流通させるべく、額に汗して奮闘努力しているのを眺めながら、「この人たちを性について語ることへ駆り立てる情熱は何に由来するのだろう」とつねづね不思議に思っていました
ほんとうに、どうしてなんでしょう。
六〇年代によく聞かされていた説明は、「久しく性は抑圧され、権力的に管理されてきた。そして、性について自由に語ることは禁じられてきた。いまや、この抑圧をはねとばして、自由に性について語り合う権利をぼくたちは奪還した。さあ、どんどん語ろうじゃないか。倒錯とか変態とか不倫とか、野暮は言いっこなしさ。ぼくたちは自由で解放された人間なんだから、はははは」というようなものでした。私はこういう類のことを言う人間をまったく信用しておりませんでしたが、どうもそれから四十年近くたっても、性について語る学者の口ぶりはこれとたいして変わってはいないようです。さいわいフーコーも私と同じ不満を抱いているようです。
 
K 19世紀になると、性的逸脱が「治療」の対象となり性的異常のカテゴリー産出。性的逸脱を「カタログ化し、一覧的に位置づける」情熱!(109頁)
K-2 さらに、もろもろの「性の言説化」(110頁)
K-3 「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類・命名・標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする「ストック趨向性」である。「カタログ化し、一覧的に位置づける」ことは、すでに「権力」である。(110-111頁)
 
フーコーの社会史を読むときにたいせつなことは、この性の言説化についての批判から窺い知れるように、「権力」ということばを単純に、「国家権力」とか、それがコントロールしている各種の「イデオロギー装置」という実体めいたものとしてとらえてはならないということです。「権力」とは、あらゆる水準の人間的活動を、分類し、命名し、標準化し、公共の文化財として知のカタログに登録しようとする、「ストック趨向《すうこう》性」のことなのです。ですから、たとえ「権力批判」論であっても、それが「権力とはどのようなものであり、どのように機能するか」を実定的に列挙し、それを「カタログ化し、一覧的に位置づけ」ることを方法として選ぶ限り、その営みそのものがすでに「権力」と化していることになります。
フーコーは「権力批判」の理説を立てた、というふうに要約することはフーコーのほんとうの企図を逸することになります。フーコーが指摘したのは、あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようという欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能するということです。
ですから、そう書いている当のフーコー自身の学術的な理説も、そしてフーコー理論を祖述したり紹介したりしているすべての書物も(もちろん本書も)、宿命的に「権力」的に機能することになります。
 
・(「生権力」とか「統治性」といったフーコーの権力論
 
L 「権力=知」の産みだす「標準化の圧力」。おのれの「疑い」そのものが「制度的な知」へと回収されていく。それへの不快を真骨頂とするフーコーの批評性。(111-112頁)
 
・この逆説をフーコー自身はおそらく痛切に予知していたはずです。
制度に「疑いのまなざし」を向けているおのれの「疑い」そのものまでが、「制度的な知」として、現に疑われている当の制度の中に回収されてゆくことへの不快。そのことに気づかずに「権力への反逆」をにぎやかに歌っている愚鈍な学者や知識人への侮蔑。この不快にドライブされた徹底的な自己言及がフーコーの批評性の真骨頂です。(この「大衆嫌い」もニーチェからフーコーが受け継いだ知的資質の一つです。)
 
 
 
 
<4.「四銃士」活躍す その2――バルトと「零度の記号」>ロラン・バルト
バルトの記号学
① 覇権を握った語法(エクリチュール=「価値中立的な語法」の内に社会集団のイデオロギーがひそむ&
②「作者の死」と「読者の誕生」
 
1.「客観的ことばづかい」が覇権を握る→徴候、象徴、記号、ラング、スティル、エクリチュール
(1)徴候(自然的因果関係に基づく)、象徴(事実的連想に基づく)、記号(取り決めに基づく)
A しるし①徴候(indice):しるしと意味が自然的因果関係を持つ。Ex. 黒雲は嵐のしるし。(113-4頁)
A-2 しるし②象徴(symbole):しるしと意味が、事実的な連想で結ばれている。Ex. 天秤は裁判の公正のしるし。(114頁)
A-3 しるし③記号(signe): しるしと意味が、社会集団の制度的・人為的取り決め(「集合的な記号解読ルール」)で、結び付けられている。しるしは「意味するもの(signifiant、シニフィアン)」、意味は「意味されるもの(signifié、シニフィエ)」と呼ばれる。(114-6頁)
B ロラン・バルトは、あらゆる文化現象を、「記号」として読み解く。(117頁)
B-2 バルトについて(a)「エクリチュール」の概念、および(b)「作者の死」の概念について、以下、述べる。(117頁)
 
(1)-2 覇権を握った語法(エクリチュール)こそ「客観的ことばづかい」である&この「価値中立的な語法」の内にその社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ
C 1960年代、バルトの「エクリチュール」の概念が、大流行する。(117頁)
C-2 言語の規則には①「ラング(langue)」と②「スティル(style)」がある。(118頁)さらに③「エクリチュール」(écriture)がある。(120頁)
C-3 ①ラング:「ある時代の書き手全員に共有されている規則と習慣の集合体」。「国語」にあたる。「言語共同体」はラングを共有する。ことばづかいの「外側からの」規制。(118-9頁)
C-4 ②スティル:個人個人の言語感受性、言語感覚。話すときの速度、リズム感、音感、韻律、息づかい等。書くときの文字のグラフィックな印象、比喩、文の息の長さ等。ことばづかいの「内側からの」規制。個人的な好み。(119-120頁)
C-5 ③エクリチュールことばづかいの第三の規制。集団的に選択され、実践されることばづかいの「好み」。「エクリチュールとは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を、選び取ることである。」(バルト)ことばづかいが、その人の生き方全体を、ひそかに統御する。Ex. 中学生男子のエクリチュール「ぼく」から「おれ」に、おじさんのエクリチュール、教師のエクリチュール、やくざのエクリチュール、営業マンのエクリチュール(120-122頁)
 
D すべての語法(エクリチュール)は、覇権を争う闘争である。ある語法が覇権を手に入れると、それは社会生活の全域に広がり、無徴候的な偏見(doxa)となる。(121頁)
D-2 「価値中立的な語法」の内にこそ、その社会集団の全員が共有するイデオロギーがひそむ。Ex. 「覇権を握った性イデオロギー」(123頁)
 
・そのような意味において、私たちは「エクリチュールの囚人」です。バルトが言うとおり、「エクリチュールが自由であるのは、ただ選択の行為においてのみであり、ひとたび持続したときには、エクリチュールはもはや自由ではなくなっている」のです。
 ここでバルトが警告しているのは、あまりに広く受け容れられたせいで、特に「どの集団固有のエクリチュール」とも特定しがたくなった語法の持つ危険性です。
「無徴候的なことばづかい」、それが「覇権を握った語法」です。その語法はその社会における「客観的なことばづかい」です。つまり、何らかの主観的な意見を述べたり、個人的な印象を語ったりするのではなく、客観的に、私情を交えずに、価値中立的に語っているつもりでいるときに使うことばづかいがそれです。バルトは、そのような一見価値中立的に見える語法が含んでいる「予断」や「偏見」に注意を促しています
「価値中立的な語法」のうちにこそ、その社会集団の全員が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる、というバルトのアイディアをもっとも巧みに活用したのはフェミニズム批評における言語論です。
 
E 読む「主体」は、簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまう。(124頁)
E-2 テクストが、「主体」を変える。ものの見方の変化。(125頁)
E-3 テクストと読者の双方向的なダイナミズム。(126頁)(次節(2)読者の誕生と「作者の死」参照!)
 
2.読者の誕生と作者の死→コピーライトテクスト
(2)近代批評:(1)作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜すことから、(2)「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせ「作者に書くことを動機づけた初期条件」(=作品の「秘密」)を探すことへ
F 「作者」に「言いたいこと」があって、それが、作品を「媒介」として、読者に「伝達」されるという単線的図式。これをバルトは否定する。(126-7頁)
F-2 近代批評は、「行間」を読み、作者の「底意」(真に「言いたいこと」)を捜した。作者は、「この作品を通して、何を意味し、何を表現し、何を伝達したかったのか」を、批評家が問う。(127頁)
F-3 ところが、作者たちは「自分が何を書いているのか」、はっきり理解しているわけでない。(128頁)
《評者の感想》
①言葉が並べられている限りで、「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」は、類型性(=一般性)を持つ。かくてそれら、が取り込む事象・感情には、一定の幅がある。その幅から、全く自由に、読み解けるとは思えない。
②「言葉」&「その組み合わせ(=作品)」が作者によって選び取られ、産出されたのだから、その選び取る行為を動機づけた「意図・感情」は存在する。意図・感情が「並べられた言葉」(=作品)を産みだした。「意図・感情」を問うことはできる。ただし、この「意図・感情」が、作者にとって「言いたいこと」として明確に把握されていたかどうかは、不分明である。
 
G 言語を語るとき、私たちは必ず、記号を「使い過ぎる」か「使い足りない」か、そのどちらかになります。「過不足なく言語記号を使う」ということは、私たちの身には起こりません。「言おうとしたこと」が声にならず、「言うつもりのなかったこと」が漏れ出てしまう。(「それと気づかずに語ってしまったこと」がある。)これらが、人間が言語を使う時の宿命です。(128頁)
 
H 批評家は、作者が「言おうとしたこと」の特定は、原理的に困難とわかり、かくて「それと気づかずに語ってしまったこと」に照準を合わせる。「作者に書くことを動機づけた初期条件」を探る。作品の「秘密」を探す。(128頁)
H-2 ①家庭環境、②幼児体験、③読書経験、④政治イデオロギー、⑤宗教性、⑥器質疾患、⑦性的嗜虐などが、作品誕生の「秘密」を教えてくれる。(128-9頁)
H-3 今もこれが、近代批評の基本パターンである。(129頁)
 
(2)-2 「作者の死」と「読者の誕生」
I バルトは、「テクスト」(=「作品」)は「織り上げられたもの」・「テクスチュア」で、「その背後に何か隠された意味(真理)を潜ませている」ものではないとする。(129-130頁)
I-2 「作者は何を表現するためにこれを織り上げたのか」と問うことに、意味はない。(129-130頁)
I-3 主体は解体する。「作者の死」!(130-131頁)
《評者の感想》:バルトは作者もまた、読者の一人だと言っている。書かれた「作品」は変わらずにそこにある。「作品」の解釈において、作者の特権性は、原理的にない。(「作者の死」!)しかし「作品」を形として産出したのは作者である。
 
J テクストはさまざまな文化的出自をもつ多様なエクリチュールによって構成されている。そのエクリチュールたちは対話をかわし、模倣し合い、いがみ合う。しかし、この多様性が収斂《しゆうれん》する場がある。その場とは、これまで信じられてきたように作者ではない。読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある。(略)読者の誕生は作者の死によって贖《あがな》われなければならない。」(バルト「作者の死」)(バルト) (131頁)
《評者の感想》
① バルトによれば、「作品」を形として産出した作者は、「主体」でなく、システムの結節点である。作品は、「主体」が産みだすのでなく、諸システム一般の帰結、つまり「様々な文化的出自を持つ多様なエクリチュール」一般であるとバルトは言う。
② “作者が「主体」でなく、システムの結節点である”と言ったところで、作者は作品を書き、それを売ってカネと地位を得て、いい生活ができるのなら、そしてそれを追求しているのなら、作者は「主体」であり続けるのではないのか?カネと地位と「いい生活」の快楽を感じる者こそ、「主体」である。
③ “快楽を感じる者つまり「主体」”が、システムの結節点だとして、だからと言って、“快楽を感じる者が「主体」である”という事実に何の変化もない。
 
J-2 「テクストの統一性は、その起源(=作者)でなく、その宛先(=読者)のうちにある。」(バルト)「作者の死」と「読者の誕生」!(131頁)
 
K “改造自由なインターネット・テクストは、上記のバルトの説そのものだ”と、内田樹氏。(131-3頁)
《評者の感想》
① インターネット・テクストは多数の作者の共同作業で、作品の「形」を変化させていく。
② しかし、バルトは、作品の「形」としての書き換えについては、語っていない。「解釈」の主体が、作者を含む読者であって、作者のみでないと言っているだけである。
 
3.純粋なことばという不可解な夢→エクリチュールの零度、俳句
(3)純粋なことば(「無垢のor白いエクリチュール」)という不可能な夢
 
・バルトにはある種の「こだわり」がありました。それは「空」や「間」への偏愛です。これらの概念はたしかに非ヨーロッパ的なものです。というのは、「空」は充填されねばならぬ不在であり、「間」は架橋されねばならぬ欠如であるとヨーロッパ的精神は考えるからです。しかし、宇宙をびっしり「意味」で充満させること、あらゆる事象に「根拠」や「理由」や「歴史」をあてがうこと、それはそれほどたいせつなことなのだろうか、むしろそれはヨーロッパ的精神の「症候」ではないのか、バルトはそう疑ったのです。空は「空として」機能しており、無意味には「意味を持たない」という責務があり、何かと何かのあいだには「超えられない距離」が保持されるべきだ……そういうふうな考え方は不可能なのだろうか、バルトはそう問いかけます。そして、その答えを日本文化の中に見つけた、と信じたのです。
 
L バルトは、「白いエクリチュール」、何も主張せず、何も否定しない、ただそこに屹立する純粋なことばという不可能な夢を持つ。(135頁)
L-2 これは、あるいは「エクリチュールの零度」、「直接法的エクリチュール」、「モードを持たないエクリチュール」、「ジャーナリストのエクリチュール」(ただし希求法、命令法などパセティックな語法を含まない)、「絶叫と判決文の中間」、「非情なエクリチュール」、「無垢なエクリチュール」とも呼ばれる。(135頁)
L-3 願望、禁止、命令、判断など主観の介入を完全に欠いた「白いエクリチュール!バルトが生涯を賭けて追い求めた言語の夢!(135頁)
 
M バルトは、アルベール・カミュの『異邦人』の乾いた響の良い文体、「説明」せず「内面」に潜り込まない文体を「理想的な文体」と絶賛。(136頁)
M-2 しかしその文体が「美分の模範」として制度的語法となれば、もはや「白いエクリチュール」ではない。(136頁)硬直化し、使用者に隷従を強いる装置となる。
 
N バルトは、ジャーナリズムもだめ、『異邦人』もだめ、シュルレアリスムもだめ、ヌーヴォーロマンもだめ・・・・と、あらゆるエクリチュールの冒険に幻滅するが、最後に、日本の俳句と出会う。(137頁)
N-2 俳句は、「言語を欲情させる」ことがない、「言語を中断する」。(137頁)
N-3 ヨーロッパの言語は、対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させる。つまり語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的解釈。(137頁)
N-4 俳句は解釈を自制する。(137頁)
 
・あらゆるエクリチュールの冒険に幻滅した果てに、バルトが出会ったのは何と「俳句」だったのです。芭蕉の一句を論じた一節にバルトはこう書きます。
『すでに四時/私は九回起きた/月を愛でるために』(「九たび起きても月の七ツ哉」)
注解者はこの句をこう解する。『月がたいへん美しいので、詩人は何度も起き出しては窓越しに月を眺めた』。暗号を解読し、型番を付け、同語を反復する。ヨーロッパにおける解釈の方法とはしょせんこの手のものである。それは意味を『貫き』、強引に意味を挿入するだけなのだ。(略)だからヨーロッパ的解釈は決して俳句そのものには手が届かない。というのも、俳句を読むという営みは、言語を欲情させることではなく、言語を中断することだからである。」(『表徴の帝国』)
 バルトは性的な比喩を用いて、ヨーロッパ的解釈の暴力性を際立たせようとしています。ヨーロッパの言語は対象を「欲情する」言語です。対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させることをそれはめざします。しかし、語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的な解釈にこだわる限り、俳句の風雅に触れることはできないでしょう。むしろ俳句は解釈を自制するものの前にのみその真の美的価値を開示する、とバルトは考えます
俳句の解釈は、禅僧が師から与えられる「公案」を解釈する作業に似ています。この課題の目的は公案に一義的な解釈をもたらすことではありません。ただひたすらそれを玩味し、「ついにそこから意味が剥落するまで、それを〈噛み〉続ける」ことが求められます。この「意味を与えて、解釈に決着をつける」ことへのきびしい抑制をバルトは「言語を中断させること」と表現しているのです
 「俳句においては、ことばを惜しむということが優先的に配慮される。これは私たちヨーロッパ人には考えも及ばぬことだ。それは単に簡潔に語るということではない。そうではなくて、逆に、意味の根源そのものに触れるということなのだ。俳句は短い形式に凝縮された豊かな思想ではない。おのれにふさわしい形式を一気に見出した短い出来事なのである。」(『表徴の帝国』)
 俳句に贈られた、いささか法外なこの賛嘆の言葉と、ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対してバルトが示した激しい嫌悪の当否について、ここでは論じるだけの紙数がありません。しかし、私たちの文化が「みごとに説明しきること」や「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」や「どこにも着地できないで宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標と見なすという「民族誌的奇習」を保存していることは、バルトの言うとおり、たしかなことであるように思われます。それが果たしてバルトが夢見たような「無垢のエクリチュール」へ続く王道であるのかどうか、私にはよく分かりません。しかし、それについて考察し続けることは、私たち日本人読者に許された「特権的な義務」であると私は思います。
 
N-5 「意味を与えて、解釈に決着をつける」ことの抑制が、「言語を中断させる」ことである。(138頁)
N-6 俳句の解釈は、禅僧が師から与えられる「公案」の解釈に似る。公案に一義的解釈はない。それを玩味し、「ついにそこから意味が剥落するまで、〈噛み〉続ける」ことが求められる。(138頁)
 
O 俳句は、「簡潔に語る」のではない。それは「短い形式に凝縮された豊かな思想」ではない。(138頁)
O-2 俳句は、「おのれにふさわしい形式を一気に見いだした短い出来事」である。それは「意味の根源そのものに触れる」。(138頁)
O-3 俳句こそ、「無垢のエクリチュール」への王道である。(バルト)(139頁)
 
P ヨーロッパ的な「意味の帝国主義」に対するバルトの激しい嫌悪。(138頁)
P-2 「みごとに説明しきること」、「何ごとについても理非曲直を明らかにすること」より、「無根拠に耐えうること」、「どこにも着地できない宙吊りになったままでいられること」を人間の成熟の指標とみなすという「民族誌的奇習」を持つ日本人。(138-9頁)
 
 
 
 
<5.「四銃士」活躍す その3――レヴィ・ストロースと終わりなき贈与>
1.実存主義に下した死亡宣告→主体、参加、構造、規則
(1)レヴィ=ストロース構造主義の立場から実存主義サルトル)を批判
A ソシュール直系のプラハ学派のローマン・ヤコブソンからヒントを得て、レヴィ=ストロースは、親族構造を、音韻論の理論モデルを使って、解析する。『親族の基本構造』(1949)、『悲しき熱帯』(1955)。(140頁)
B 『野生の思考』(1962)で、ジャン=ポール・サルトルの『弁証法的理性批判』を、痛烈に批判。実存主義の死亡宣告。(141-2頁)
B-2 しかし、このときをさかいにして、フランス知識人は、「意識」や「主体」について語るのを止め、「規則」と「構造」について語るようになります。「構造主義の時代」が名実ともに始まったのです。(141頁)
 
サルトル実存主義は、ハイデガーヤスパースキルケゴールらの「実存」の哲学にマルクス主義の歴史理論を接合したものです。
 
C 実存主義:「実存は本質に先行する」。どういう決断をしたかで、その人間が「何者であるか」(本質)が決定される。ある歴史的状況のもとで、断片的なデータと直観を頼りに決断する=「参加(アンガージュマン」。ただし、主観的判断に基づき下した決断の責任は、粛然と引き受ける。(142-3頁)
(※例えば、人間性という例を挙げ、人間性というものは存在するかもしれないが、その存在は初めには何をも意味するものではない、つまり、存在、本質の価値および意味は当初にはなく、後に作られたのだと、この考え方では主張される。このように、この考えはキリスト教などの、社会における人間には本質(魂)があり生まれてきた意味を持つ、という古来からの宗教的な信念を真っ向から否定するもので、無神論の概念の一つにもなっている。)
 
・両者が対立するのは論件が「主体」と「歴史」にかかわるときです。
私たちはみな固有の歴史的状況に「投げ込まれて」います。例えば私は日本人ですので、そのことだけを理由に旧植民地の人から「戦争責任」を追及されることがあります。私自身が戦争に行ったわけではないのですが、私の生まれたこの国が半世紀前に犯した行為に、私は私の意思とかかわりなく「結びつけられて」おり、それについて謝罪するのか居直るのか無視するのか、はっきりしろとあちこちで迫られます「私は知らない、私は関係ない、私は中立がいい」と泣きごとを言って責任を逃れることは私には許されていません。
これが「参加《アンガージュマン》」(engagement 原義は「拘束されること」)という事態です。私の置かれている歴史的状況は、非中立的で、「待ったなし」で私に決断を求めてきます。いったい何が起こりつつあるのか、自分はどう決断するのがいちばん「正しい」のか、それについて百パーセント客観的で正確な情報が私に提供されるということはありませんから、こちらとしては、断片的なデータと、直観を頼りに決断を下すしかありません。「正解」を知らぬままに決断を下すのですから、判断を誤ることもあるかも知れませんが、「よく分からないままに決断したのだから」という理由で責任を回避することは許されません。このいささかパセティックな決断が「参加する」(s'engager 原義は「自分を拘束する」)と呼ばれます
サルトルの「参加する主体」は、与えられた状況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことです。これはたいへん凜々《りり》しい生き方だと言えます。(個人的には私もこういうのは大好きです。)
しかし、このあとの議論で実存主義構造主義は不和を生じます。
 
2.サルトルカミュ論争の意味→歴史
レジスタンスの伝説的闘士として戦後フランスの知的世界に君臨した一九四五年において、カミュの主張は歴史的に「正解」でした。しかし歴史的条件が激変した七年後には別の答えが「正解」になります。
歴史的状況の変動を見定めて、そのつどもっとも適切な階級的任務を果たすことが知識人の使命であるにもかかわらず、カミュは自己変革の努力を怠り、知識人としての歴史的責務を果たし得なかった。レジスタンスを領導したときのカミュは歴史的に正しかったが、同じ立場にとどまって第三世界の民族解放闘争への全面的コミットをためらうカミュは歴史的に間違っているサルトルはそう書きました。
「君が君自身であり続けたいのなら、君は変化しなければならない。しかし君は変化することを恐れた。」サルトルはこう言って、かつての盟友カミュに思想家としての死を宣告したのでした。
 
実存主義はこうして一度は排除した「神の視点」を、「歴史」と名を変えて、裏口から導き入れたような格好になりました。レヴィ=ストロース咎めたのは、この点です
主体は与えられた状況の中での決断を通じて自己形成を果たすという前段について実存主義構造主義は別にどこが違うわけでもありません。しかし、状況の中で主体はつねに「政治的に正しい」選択を行うべきであり、その「政治的正しさ」はマルクス主義的な歴史認識が保証する、という後段に至って、構造主義実存主義と袂を分かつことになったのです。
 
3.かくてサルトルは粉砕された→未開、文明、客観性
D レヴィ=ストロース『野生の思考』によれば、世界の見方の差異は、「知的能力」によるのでなく、「関心」の持ち方の差異による(147頁)
《評者の感想》
人間の欲求の実現、すなわち自然の支配という点では、近代科学技術は、「野生の思考」の呪術的世界を圧倒的に凌駕する。自然の支配という「関心」は、「未開」社会でも「文明」社会でも同一。だから、この「関心」のもとでは、「文明」社会は、「未開」社会より圧倒的に優れている。
 ②しかし、人生の意味への「関心」については、「未開」社会も「文明」社会も、優劣がない。
 
D-2 あらゆる文明は、おのれの世界の見方こそ「客観的」である、つまり真の世界を捉えていると考える。(147頁)
D-3 近代科学技術を発展させた「文明人」は、「未開人」が、「主観的に歪められた」世界を見ているとみなす。(147頁)西欧的知性の「思い上がり」!(151頁)
 
E サルトルは「歴史」を、未開から文明へ、停滞から革命へ進む単線的プロセスととらえ、「歴史的に正しい決断を下す人間」と「歴史的に誤りを犯す人間」を峻別する。これに対しレヴィ=ストロースは、サルトルの見方は、「野蛮人」が自らの「物差し」で、「自分たち」の真の見方と「よそもの」の誤った見方を区別するのと、同じだと批判。サルトルの「自己中心性と愚鈍さ」!(148-9頁)
E-2 実存主義は、「歴史の名において、すべてを裁断する権力的・自己中心的な知」である。(レヴィ=ストロース(150頁)
F サルトルは、レヴィ=ストロース構造主義に対し、真の見方である実存主義の立場から「歴史の名において」死刑宣告を下す。サルトルは、全く、レヴィ=ストロースの批判を理解しない。かくて、実存主義の時代に、唐突な終わりが来る。(150頁)
F-2 サルトルは次のように言う。構造主義は、「ブルジョアジーマルクスに対抗して築いた最後のイデオロギー的障壁」、「ブルジョワテクノクラートの秘儀的学知」、「腐敗した西欧社会」の象徴である。「ヴェトナムの稲田、南アフリカの原野、アンデスの高原」の「自由な精神」が、「暴力の血路」を切り開いて西欧に攻め寄せ、構造主義を叩き潰すだろう。(150頁)
 
4.音韻論とはどういうものか→音素、ビット数
(2)音韻論の発想法(2項対立の組み合わせとして構造(制度)を捉える)を親族制度に当てはめる:レヴィ=ストロース
G音韻論(phonology)あるいは音素論(phonemics)。(151頁)
G-2 音のアナログな連続体から、恣意的に切り取られ、集合的な同意に基づいて「同音」とみなされる言語音の単位を「音素」(phoneme)と呼ぶ。(152頁)
G-3 世界中の全言語の音素は、12種類の音響的、発声的問いを重ねると、カタログ化できる。(※《評者の注》2進法で12桁の数字、つまり12ビット(12の2項対立)、つまり2の12乗通り、計4096の音素!)(153-4頁)
H レヴィ=ストロースは、“2項対立の組み合わせで無数の「異なった状態」を表現する”という音韻論の発想法を、親族制度の分析に適用した。(154頁)
 
(2)-2 すべての親族構造は2項対立で表せる。(154頁)
I 2項対立①:①-1「父と息子」親密なら「母方のおじと甥」疎遠、構造①-2「父と息子」疎遠なら「甥と母方のおじ」親密。(155頁)
I-2 2項対立②:②-1「夫と妻」親密なら「妻とその兄弟」疎遠、構造②-2「夫と妻」疎遠なら「妻とその兄弟」親密。(155頁)
《評者の注》この場合の親族構造のパターンは、次の4通り:①-1②-1、①-1②-2、①-2②-1、①-2②-2
J 人間は、2項対立の組み合わせで複雑な情報を表現する。(156頁)
 
5.すべての親族関係は二ビットで表せる→親密さ、親族の基本構造、近親相姦
(3) 感情は、親族構造が作り出す 
K “人間が、社会構造を作り出す”のでなく、“社会構造が、人間を作り出す”。(157頁)
K-2 人間の「自然な感情」が親族構造を作り出すのでなく、親族構造(制度)が感情を作り出す。(157頁)
 
・「親族の基本単位は始原的でありかつこれ以上分割しえない。それはこの基本単位こそ、世界中全ての場所に観察される、親近相姦の禁止の直接的な結果だからである。」(『構造人類学』)
親族構造は端的に「親近相姦を禁止するため」に存在するのです。
 
《評者の感想》
(a) “快楽の追求”、“人と人との平穏な関係の形成(戦争状態の回避)”という2目的(これらの基礎には、それら目的を肯定する感情がある)を目指す合理性は、人間にある。これらの目的・感情・合理性に基づいて人間は制度を変える。「信憑や習慣」は変え得る。
(b) そもそも制度は、繰り返される行為によってのみ、存在する。それら行為は、変わりうる。だから制度も変わる。「人間が社会構造を作り出す」ことが、当然、可能である。構造主義は、社会構造の変化の側面に言及しない。制度の静的な特性を、指摘するだけである。
 
6.人間の本性は「贈与」にある→反対給付、コミュニケーション、経済、言語、親族
(4)「贈与」とその「反対給付」(「返礼」)の制度=贈与システム
L レヴィ=ストロースは、親族構造(制度)は、「近親相姦を禁止するため」に存在すると言う。(158-9頁)
L-2 近親相姦の禁止のもとでは、「男は、別の男から、その娘またはその姉妹を譲り受けるという形式でしか、女を手に入れることができない。」(レヴィ=ストロース)(159-160頁)
L-3 「女を譲渡した男と女を受け取った男とのあいだに生じた最初の不均衡は、続く世代によって果たされる『反対給付』によってしか均衡を回復されない。」(レヴィ=ストロース)(160頁)
 
M この「反対給付」の制度は、知られる限りのすべての人間集団に観察される。(160-1頁)
M-2 何か「贈り物」を受け取った者は、心理的な負債感を持ち、「お返し」をしないと気が済まないという人間に固有の「気分」に動機づけられた行為が、この「反対給付」の制度を形作る。ただし「お返し」は第3者に対して行われる。(160頁)
M-3 ポトラッチにおける贈与と返礼の往還。(161頁)
 
N 贈与システムの社会的「効果」
N-2 社会システムは、変化し続ける。新しい状態が作り出されることもあれば(「熱い社会」Ex. 近代社会)、ぐるぐる循環するだけのこともある。(「冷たい社会」Ex. 「野生の思考」の社会)(162-3頁)
 
・どうして、このような贈与システムがあるのか、その起源を知ることは不可能ですが、それがどういう社会的「効果」を持つかはすぐに分かります。
効果の第一は、贈与と返礼の往還のせいで、社会は同一状態にとどまることができない、ということです。
「驕れるものは久しからず」という『平家物語』も、「人類の歴史は階級闘争の歴史である」というマルクスも、言っていることはある意味では同じです。それは社会関係(支配者と被支配者の関係、与えるものと受け取るものの関係、威圧するものと負い目を感じるものの関係)は振り子が振れるように、絶えず往還しており、人間の作り出すすべての社会システムはそれが「同一状態にとどまらないように構造化されている」ということです。
どうしてそうなるのか、理由は分かりません。
しかし、おそらく人間社会は同一状態にとどまっていると滅びてしまうのでしょう。ですから、存在し続けるためには、たえず「変化」することが必要なのです。さきほど親族の存在理由は「存在し続けること」だと書きました。だとすれば、それは同時に「変化し続けること」でもあります。
 
O レヴィ=ストロースは、人間が3つの水準でコミュニケーションするという。①サーヴィスの交換(経済活動)、②メッセージの交換(言語活動)、③女の交換(親族制度)。(163-4頁)
《評者の感想》:女の交換とは、ずいぶん男中心の一般化である。
O-2 与えたものが何かを失い、受け取った者は反対給付の責務を負う。たえず不均衡を再生産するシステム。(164頁)
O-3 ただし返礼(反対給付)はピンポンのように行き来するのでなく、別の男に贈与(返礼)がなされる。(164頁)
 
(4)-2 人間のあらゆる社会集団に共通のルール(165頁)
P レヴィ=ストロースは、社会集団ごとに「感情」・「価値観」が多様だが、他者と共生してゆくための普遍妥当的ルールがあると、考える。(165-6頁)
「人間社会は、同じ状態にあり続けることができない。」(165-6頁)
「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない。」(165-6頁)
 
レヴィ=ストロース構造人類学上の知見は、私たちを「人間とは何か」という根本的な問いへと差し向けます。レヴィ=ストロースが私たちに示してくれるのは、人間の心の中にある「自然な感情」や「普遍的な価値観」ではありません。そうではなくて、社会集団ごとに「感情」や「価値観」は驚くほど多様であるが、それらが社会の中で機能している仕方はただ一つだ、ということです。人間が他者と共生してゆくためには、時代と場所を問わず、あらゆる集団に妥当するルールがあります。それは「人間社会は同じ状態にあり続けることができない」「私たちが欲するものは、まず他者に与えなければならない」という二つのルールです。
これはよく考えると不思議なルールです。私たちは人間の本性は同一の状態にとどまることだと思っていますし、ものを手に入れるいちばん合理的な方法は自分で独占して、誰にも与えないことだと思っています。しかし、人間社会はそういう静止的、利己的な生き方を許容しません。仲間たちと共同的に生きてゆきたいと望むなら、このルールを守らなければなりません。それがこれまで存在してきたすべての社会集団に共通する暗黙のルールなのです。このルールを守らなかった集団はおそらく「歴史」が書かれるよりはるか以前に滅亡してしまったのでしょう。
 
《評者の感想》
(1)人間が「他者と共生してゆく」ことは目的・価値である。それら目的・価値が定立されるのは「他者との共生」を肯定する感情があるからである。あらゆる行為(定立された目的の実現行為)の基礎には、それを支える感情がある。
(1)-2 あらゆる構造・制度は、人間に普遍妥当的な目的・価値、つまり「他者と共生してゆく」ことを前提している。そしてその目的・価値は、人間に普遍妥当的な感情、つまり「他者との共生」を肯定する感情に支えられている。
 
・人間は生まれたときから「人間である」のではなく、ある社会的規範を受け容れることで「人間になる」というレヴィ=ストロースの考え方は、たしかにフーコーに通じる「脱人間主義」の徴候を示しています。しかし、レヴィ=ストロースの脱人間主義は決して構造主義についての通俗的な批判が言うような、人間の尊厳や人間性の美しさを否定した思想ではないと私は思います。「隣人愛」や「自己犠牲」といった行動が人間性の「余剰」ではなくて、人間性の「起源」であることを見抜いたレヴィ=ストロースの洞見をどうして反─人間主義と呼ぶことができるでしょう
 
 
 
 
<6.「四銃士」活躍す その4――ラカンと分析的対話>
1.幼児は鏡で「私」を手に入れる→鏡像段階、鏡像の私
A ラカンは、「フロイトに還れ」と言う。(168頁)
A-2 ここでは「鏡像段階」の理論と「父-の-名」の理論を紹介する。(168頁)
(1)ラカンの「鏡像段階」の理論:「鏡像」による自己の対象化
B 人間の幼児は生後6カ月位になると、鏡像に興味を抱くようになり、やがて強い喜悦の感情を持つ。(168頁)
B-2 ある種の自己同一化。主体が、鏡像を引き受け、主体内部に起きる変容。おのれの鏡像を、〈私〉の象徴として引き受ける。象徴作用の原型。(169頁)
B-3 ①「鏡像」による自己の対象化は、②「他者との同一化の弁証法を通じて〈私〉が自己を対象化すること」にも、また③「言語の習得によって〈私〉が、普遍的なもの(※言語)を介して、主体としての〈私〉の機能を回復すること」にも、先行する。(169頁)
C 生後6か月の幼児においては、身体はまだ統一されていない。「運動のざわめき」、原始的な混沌、寸断された身体という心像。「原初的不調和」!(170頁)
 
・人間の幼児は、ほかの動物の子どもと比べると、きわだって未成熟な状態で生まれてきます。ですから生後六ヶ月では、まだ自力で動き回ることもできず、栄養補給も他者に依存せざるを得ないという無能力の状態にあります。幼児は自分の身体の中にさまざまな「運動のざわめき」を感知してはいるものの、それらはまだ統一に至ることなく、原始的な混沌のうちにあります。この統一性を欠いた身体感覚は、幼児に、おのれの根源的な無能感、自分をとりまく世界との「原初的不調和」の不快感を刻みつけます。そして、この無能感と不快感は幼児の心の奥底に「寸断された身体」という太古的な心象を残します。その心象は成熟を果たしたあとも、妄想や幻覚や悪夢を通じて、繰り返し再帰することになります。(「寸断された身体」の心像というのがどういうものか、私は見たことがないので分かりませんが、たいそうおぞましいものだそうです。)
 
C-2 幼児の「原初的不調和」は鏡像を見て、統一的な視覚像として一挙に「私」を把持するとラカンは言う!(170頁)
 
D 自分の外部にあるもの(「鏡像」)を「自分自身」と思い込み、それに憑りつくことで、かろうじて自己同一性を立ち上げると、ラカンは言う。(172頁)
 
2.記憶は「過去の真実」ではない→対話、物語、精神分析、転移、分析主体、自我、私、主体
(2)精神分析「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功
E 精神分析では「自我」は、治療の拠点にならない。(173頁)
E-2 「自我」は、「おのれが正気である」と前提する。しかし「自我」の「知」も、神経症的病因から誕生した「症候形成」かもしれない。(173頁)
E-3 精神分析が足場として選ぶのは、「ことば」の水準、「対話」の水準、あるいは「物語」の水準である。(173頁)
 
精神分析的に考えると、「私」という(「主体」の外部にある)ものを主体そのものと構造的に錯認して生き思考している以上、人間は、みな程度の差はあれ狂っていることになります。極論のように聞こえますが、これはなかなか思い切りのよい立場であって、そういうふうに考えてしまうと、それはそれでいろいろとすっきりすることもあります。
この前提に立つと、「自我を知覚─意識システムの中心に位置するものとして構想する」すべての哲学、つまり「おのれが正気であることを自明の前提とする」すべての知(サルトル実存主義はまさにそのようなものとしてレヴィ=ストロースによって退けられたわけですが)にはとりあえず疑問符が点じられます。みずからを透明で安定的な知として想定するものは、そのように自己|措定《そてい》している「知そのもの」が、実は神経症的な病因から誕生した「症候形成」かも知れないという「私の前史」についての反省的視線を欠いているからです
 
F 「番人」が追い返していた「抑圧された心的過程」を「意識の部屋」に連れ出せば、症候は消失する。(フロイト)(174頁)
F-2 「意識化」とは、要するに「言語化である。(174頁)
 
G 被分析者は、「〈ほんとうの自分〉についての物語」を語る。しかし、これが「真実」だというわけではない。(174-5頁)
G-2 被分析者は、自分が何ものであるかを知り、理解し、承認してくれる「聞き手」を必要とする。(175頁)
G-3 患者が「思い出したもの」が、「症状の原因」でなく「新しい症状」であることもある。(176頁)
G-4 「無意識の部屋」の「昔のまま」の記憶がよみがえるのではない。記憶とは、「思い出されながら“形成”されている過去」である。(177頁)
 
・「無意識の部屋」に閉じ込められて「冷凍保存」された記憶を「解凍」すると、「昔のまま」の記憶が甦るというふうに考えるのは、おそらく危険なことです。記憶とはそのような確かな「実体」ではありません。それはつねに「思い出されながら形成されている過去」なのです。
 
(2)-2 「主体」の2つの極:①絶えず逃れ去る「自我」&②語られている物語の主人公としての「私」
H いくら語っても、その「思い出したもの」で、被分析者は、おのれの中心の「あるもの」(「探しているもの」)に達することは、できない。精神分析の対話における、構造的な「満たされなさ」!(179頁)
H-2 しかし、被分析者と分析家の間で創作・承認された「物語」のなかで、「私」という登場人物のリアリティが増してゆく。(179頁)
H-3 患者の内部にわだかまる「何か」が、症状という「作品」(つくりもの)となる。被分析者と分析家が共作する「物語」(「抑圧された記憶」)も、一つの「作品」(つくりもの)である。精神分析は、「あるつくりもの」を、「別のつくりもの」に置き換え(übertragen)、病的症状を軽微にする。これが「無意識なもの」を、「意識的なもの」に翻訳する(übertragen)というフロイトの技法である。(179頁)
H-4 これは「真実を明らかにする」のではない。「偽りの記憶」を共作し、症状が消滅すれば、分析は成功である。(181頁)
 
症状は、患者の内部にわだかまる「何か」が「別のもの」に姿を変えて身体の表層に露出した、一つの「作品」です。同じように、被分析者が語る「抑圧された記憶」もまた、一つの「作品」です。ですから、この「戸籍の移転」「あるつくりもの」を「別のつくりもの」に置き換えることに過ぎません。しかし、それでも、ある病的症状がより軽微な別の症状に「すり替え」られたとしたら、それは実利的に言えば、「治療の成功」と言ってよいのです。それが「無意識的なものの代わりに意識的なものを立てること、すなわち無意識的なものを意識的なものに翻訳すること」というフロイトの技法なのです。
 
I 分析家と被分析者(患者)のやり取りは、物語世界を構築するが、それは「現実の再現」、「想起」、「真実の開示」ではない。それは、象徴化作用、「創造行為」である。(183頁)
I-2 被分析者は、他者(分析家)による「承認」を目指して、過去を思い出す。(184頁)
 
分析家と被分析者のあいだの即興的で一回的なことばのやりとり、それは音楽の比喩を続けるなら、むしろジャズのインプロヴィゼーションに近いのかも知れません。一人のプレイヤーがあるフレーズを送る。それを受けたプレイヤーがそのフレーズを反復し、解釈し、変奏し、厚みを加え、新しい可能性を切り開いて、また元のプレイヤーに投げ返す。それが繰り返されるのです。そうやって、譜面に一つの旋律が記譜されるように、一つの「物語」が記されてゆきます。
分析家と被分析者のやりとりは、(一つ一つの音符の集積がやがて主題をもった旋律をなしてゆくように)、一つの物語世界を構築してゆきます。その物語がめざしているのは、楽曲がどのような意味でも「現実の再現」ではないのと同じように、現実の再現でも想起でも真実の開示でもありません。それは一つの象徴化作用にほかなりませんし、極言すれば、一つの「創造行為」なのです。
この対話で往還した一つ一つのことばの「意味」は、そのときの対話の文脈のうちで、それらのことばがどのような「価値」を持っていたのかによってのみ決定されます。ですから、メッセージを別の文脈に置き換えることはできません。分析主体が語ったことばは、その分析家とのあいだでの語りの文脈でのみ有意なのであって、別の分析家を相手に、同じ語りをもう一度そのまま繰り返せば、意味はまったく変わってしまいます。(それは例えば、ピアニストに向かって、ベース相手のインプロヴィゼーションで繰り出したのと同じフレーズを、三味線を相手にしてもう一度演奏して欲しい、と頼むのと同じことです。)
分析とは、いわば分析家と被分析者のあいだに奇跡的に成立する、一回的で、代替《だいたい》不能の「コラボレーション」です。ラカンはこう書きます。
言語活動の機能は、情報を伝えることにはない。思い出させることである。
私がことばを語りつつ求めているのは、他者からの応答である。私を主体として構成するのは、私の問いかけである。私を他者に認知してもらうためには、私は『かつてあったこと』を『これから生起すること』めざして語る他ないのである。(略)私は言語活動を通じて自己同定を果たす。それと同時に、対象としては姿を消す。私の語る歴史=物語の中でかたちをとっているのは、実際にあったことを語る単純過去ではない。そんなものはもうありはしない。いま現在の私のうちで起きたことを語る複合過去でさえない。歴史=物語のうちで実現されるのは、私がそれになりつつあるものを、未来のある時点においてすでになされたこととして語る前未来なのである。」(「精神分析における語りと言語の機能と領野」)
 ラカンによれば、被分析者がそのトラウマについて語るときの時制は、「過去のほんとうにあった出来事」を語る単純過去形ではなく、未来のある時点を起点として、そのときにすでに完了している行為を示す前未来形です。(「夕方までには、私は仕事を終えてしまっているだろう」というようなのが前未来の使い方です。)
 
J フロイトは、主体の2つの極を区別する。
「自我」「言葉の核」。主体による自己規定・自己定位のことばから常に逃れさるもの、そしてことばを語ることを動機づけるもの、それが「自我」である。
「私」相手のいる対話の中で、主体が「前未来形」(相手による承認をめざすこと)で語っている物語、その主人公が「私」である。(185-6頁)
J-2 主体は、「自我」と「私」の2極間を行きつ戻りつしながら、両者の距離を縮小しようとする。分析家は、それを支援する。(186頁)
 
ラカン「自我」(moi) 「私」(je) 「主体」(sujet)という同義語を手品師のように巧妙な手際で使い分けている理由もこれでお分かりになるかと思います。
「自我」とは主体がどれほど語っても、決してことばがそこに届かないものです。主体をして語ることへ差し向ける根源的な「満たされなさ」のことです。
「言いたいことがあるのだが、どうしてもそれが言葉にならない」ということは私たちの身にしばしば起こります。そのとき、「何が言いたいのか」を言うことはできませんけれど、「どうしても言葉にならないもの」がそこに「ある」ということだけは言うことができます。ラカンの「自我」は、その「言葉にならないけれど、それが言葉を呼び寄せる」ある種の磁場のようなものだと思ってください。
フロイトは「自我」を「ことばの核」と名づけました。主体が「私」として語っているとき、そのつど構造的に主体による自己規定、自己定位のことばから逃れ去るもの、そしてそれゆえ、さらにことばを語ることを動機づけるもの、それが「自我」です。ですから、対話の目的は、この「自我」の「何ものであるか」を言うことではなく、ただ「自我」の「ありか」を探り当て、その「作用」を見切ることなのです。それが精神分析の仕事です。
「自我」とはそのようなものです。これに対して、「私」とは相手のいる対話の中で「私は……である」という言い方で自己同一化を果たす主体のことです。
「私」とは、主体が「前未来形」で語っているお話の「主人公」です
つまり、「自我」と「私」は主体の二つの「極」をなしているわけです。主体はその二極間を行きつもどりつしながら、「自我」と「私」の距離をできるだけ縮小することにその全力を賭けます。そして、分析家の仕事は、それを支援することに存するのです。
 
3.大人になるということ→父、分節、差異化
(3)「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(つまり「大人」になること=「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である
K 他者と言葉を共有し、物語を共作すること。これが人間の人間性の根本的条件。これが人間の「社会化」プロセス。すなわち、「エディプス」。(187頁)
 
他者とことばを共有し、物語を共作すること。それが人間の人間性の根本的条件です。精神疾患の治療とは、まさにこの人間の基本に問題をかかえる人々をコミュニケーションの回路の中にふたたび迎え入れることをめざしているのです
 
K-2 「エディプス」とは、①子どもが言語を使用するようになること、「人間の世界には、名を持つ物だけが存在し、名を持たぬものは存在しないこと」を父から教えられること(「父の名」)。また②子どもと母親との癒着が父親によって断ち切られること(「父の否」)。(187頁)
K-3 「父の否=父の名」。癒着したものに②「切れ目を入れること」と①「名前をつけること」は同じ一つの身ぶり。(187頁)
K-4 つまり①「記号による世界の分節」(ソシュール)と②「近親相姦の禁止」は同じ一つの身ぶり。(188頁)
L 言語の習得(①)とは、「私の知らないところですでに世界は分節されているが、私はそれを受け容れる他ない」。子どもの絶対的受容性、つまり「世界に遅れて到着した」こと。(188-9頁)
L-2 どういう基準で差異化・分節がなされたか、それを「遡及的に知ることができない」という人間の根源的な無能。あるいは「不条理」。(190-191頁)
L-3 子どもは、エディプスを通過して「大人」となる。「不条理で強大なもの」(「父」)に屈服する能力を身につけること(「成熟」)が、エディプスというプロセスの教育的効果である。(193-194頁)
 
昔、二人のお爺さんが隣り合って暮らしていました。二人とも、頬に大きなこぶがありました。あるとき、一人のお爺さんが山で雨にあって木の洞《ほら》で雨宿りをしていると、鬼たちがやってきて宴会を始めます。はじめはこわごわ見ていたお爺さんですが、そのうちに調子に乗って、いっしょに舞うと、これが鬼たちに受けて、「明日も来い。これはカタにとっておく」と言ってこぶを取られてしまいます。この話を聞いた隣のお爺さんが翌日山に出かけて、同じようにひとふし舞ってみせたのですが、これは不評で、鬼に両方の頬にこぶをつけられてしまいました。おしまい。
こうやってあらすじを紹介すると、かなり「不条理」な物語です。
この物語に「教訓」があるとすれば、それは何でしょう。
「芸は身を助ける」ということでしょうか。
それはありえません。「よいお爺さん」が日ごろから踊りの稽古に余念がなく、「悪いお爺さん」がそれを冷笑していた、などという記述はどこにもないからです。(もしみなさんがお読みになったものにそのような「合理的説明」を施したものがあったら、それは間違いなく、リライトした作家による改作です。長く語り伝えられている説話はすべて本質的に「不条理」なお話です。そもそも「努力した人は報われる」というようなつまらない説話を、誰が好んで何世紀も語り伝えるものですか。)二人ともいずれ劣らぬお粗末な素人踊りを鬼の前で披露したにもかかわらず一方は報償を受け、一方は罰せられました。
あらためて考えると、実に不可解な話だと思いませんか。どちらも区別しがたいほどにへたくそな踊りをしたのに、一方は報償を受け、一方は罰せられるなんて。
実は、この物語の教訓は「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ」という命令のうちにこそあるのです
この物語の要点は「差別化=差異化=分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは、理解を絶しているが、それをまるごと受け容れる他ない」と子どもたちに教えることにあります。
 
4.コミュニケーションにこそ価値がある→「物語の共有」、「再起動」
(3)-2 「贈与と返礼の往復運動」としてのコミュニケーション
M 「正常な大人」は二度の自己欺瞞(「詐術」)をうまくやりおおせたものの別名
(a)(1度目)鏡像段階において「私でないもの(鏡像)」を「私」と思い込み「私」を基礎づけること。
(b)(2度目)エディプスにおいて、おのれの無力と無能を、「父」の威嚇的介入の結果であるとして「説明」すること。(195頁)
M-2 精神分析の治療は、(b)エディプスの通過に失敗した非分析者を対象とする。Cf. (a)鏡像段階を通過できない者は、「私」が存在しないので、そもそも精神分析に、たどり着かない。(195頁)
M-3 精神分析は、分析家を「父」と同定し、「自分についての物語」を「父」と共有し、「父」に承認してもらうプロセスである。(195頁)
 
ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇《いかく》的介入の結果として「説明」することです。
みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。
ですから、精神分析の治療は、ふつうはエディプスの通過に失敗した被分析者を対象とするわけですが(鏡像段階を通過できなかった人には「私」がないので、おそらく分析にまでたどりつくことさえできないでしょう)、その作業は、標準的には、分析家を「父」と同定して、「自分についての物語」をその「父」と共有し、「父」に承認してもらうというかたちで進行することになります。
 
 
N 精神分析で重要なのは、分析家における、被分析者の言説の「理解」でなく、「返事」である。(196頁)
N-2 精神分析では、ことばの贈与と嘉納が重要で、「内容はとりあえずどうでもよい」。「ことばそれ自体」に価値がある。ことばの贈与と返礼の往還の運動を、くりかえすことが重要。(196頁)
N-3 精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではない。「治る」ことが目的。「治る」とは、コミュニケーションの不調に陥っている非分析者を、再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせることである。(196頁)
N-4 かくて精神分析で「治る」とは、停滞しているコミュニケ―ションを、「物語を共有すること」によって再起動させることである。これは他者との人間的「共生」において、常に採用している戦略でもある(197-8頁)
N-5 コミュニケーションとは、「他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往復運動」のことである。
 
レヴィ=ストロースによれば、メッセージの交換を行いうることは「人間」であるための必須条件です。したがって精神分析の目的は、とにもかくにも、問いかけと応答の往還の運動のうちに分析主体を引きずり込むことにあります。分析主体が知るべきなのは、自分の症候の「真の病因」などではありません。そんなものはどうでもよいのです。大事なのは、この対話を通じて、欲しいもの(いまの場合でしたら、「自分の成り立ちについてのつじつまのあった物語」)を手に入れるためには他者(分析家)を経由しなければならないという人類学的な真理を学習することなのです。自分自身を言語のネットワークの中の「どこか」に定位することなのです。
分析家は分析が終わると、必ずそのたびに被分析者に治療費を請求しなければならない、というのが精神分析のたいせつなルールです。決して無料で治療してはならないというのは大原則です。ラカンの「短時間セッション」は場合によると握手だけで終わることがありましたが、そのときでもラカンは必ず満額の料金を受領しましたし、料金を支払えなかった被分析者に対しては平手打ちを食わせることをためらいませんでした「お金を払う」ことは非常に重要なのです。なぜなら、被分析者は分析家に治療費を支払うことで、精神分析の診察室において「財貨とサービスのコミュニケーション」である経済活動にも参与することになるからです
精神分析の目的は、症状の「真の原因」を突き止めることではありません。「治す」ことです。そして、「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往還運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。
 
 
あとがき・参考文献